アシナシトカゲ

アシナシトカゲ

 

 

茂みをゆっくりと進んでいく長い姿、舌をチロチロと出しながら目をギョロリと動かします。そして上空から鳥の鳴き声が聞こえると身を縮こませ隠れます、しばらくすると隙間から這い出てまばたきをひとつ……。

よく見ると尻尾の先がまっすぐ切られたような断面が見えます。尻尾を敵が襲われたときに切り離したのかもしれません……。

 

 

さて上記の文章で一体何を想像されたでしょうか。

ヘビと思った方は残念、実は上記の文章にはヘビにはできないことがいくつも示されています。

 

一つずつ確認してみましょう。

まず、ヘビはまばたきをしません

寝ているときでさえかっと見開いたような目をしています。

しかし実はヘビは透明のまぶたを常に閉じていると言った方が正しいのです。

と言いますのも、脱皮した皮を拾って頭の方を観察すると目の位置にも皮が残っていることが分かります。進化の過程でまぶたがくっついてしまったのです、これは地中での生活が長かったからと言われています。例えば地中で暮らすモグラの仲間には目が皮膚の下に埋まってしまっているものもいます。

ヘビに関して言えば地上に再び進出した際、まぶたの構造はそのまま透明化したと考えられています。

 

次にヘビは耳がありません。ヘビとトカゲの横顔を写真などで見比べると、トカゲには目の後ろの方に穴が開いているのを確認できます。これは人間の耳にそうとうするもので中にはちゃんと鼓膜が存在します。

一方でヘビにはそれがありません。ヘビは耳ではなく体全体で感じる振動や赤外線センサーの役目を果たすピット器官によって他の動物の動きを察知しているようです。

つまり空から声がしても構造上ヘビは感知が難しいのです、これも地中生活の長かった所以でしょうか?

またインドでは路上にヘビ使いと呼ばれる人が、笛を吹いてコブラがそれにあわせて踊る光景が見られますがおそらく音ではなく体や笛の動きに連動しているのだと考えられます。

 

さらにヘビは尻尾を切り離すこと(自切)はしません。尻尾を切ることができるのはトカゲの仲間です

「トカゲの尻尾切り」という有名な言葉があるように、トカゲは尻尾を切るものと思ってしまいそうですがトカゲ類すべてがこの自切を行うわけではないそうです。

 

この一見するとヘビの生き物たちはアシナシトカゲやヘビトカゲと呼ばれています

(でも、実際はアシナシトカゲには脚があるものも分類されています、ややこしいですね。)

トカゲとしての特徴(まばたき、耳、尻尾切り)を持っており、さらに骨格を見ると脚があった痕跡があり、一度あった脚がどんどん短くなって最後にはなくなってしまったことが分かります。

 

このように別種の動物が同じような見た目や能力を獲得することを収斂進化と呼びます

ヘビとアシナシトカゲの関係の他にも、モグラとオケラの手の形が土を掘るのに最適な形であったのか、ほぼ同じ形状であったりします、最も驚いたのはオーストラリアの有袋類(カンガルーのようにお腹に子育て用の袋がある生き物)には、よく似た生物がまるで最初から遂になるかのように確認されているのです。例えばオオカミとフクロオオカミ、ネコとフクロネコ、アリクイとフクロアリクイ……など。

このような例を見ると生き物は好き勝手に進化しているようで、何か一貫性を持っているのではないかと想像を膨らましてしまいます。

 

 

進化とは不思議なもので一定の方向を持ちません、進化と言えば常に進歩・発展しているようですが実に相対的なものであることが分かります。

きっとアシナシトカゲにとっては入り組んだ地形で生きていくために最適な進化であったに違いありません。

最善を目指したつもりが傍から見ると退化のように見えてしまうこともあるようです、しかし本人が満足であればそれが一番なのかもしれませんね。

 

 

それでは今日はこの辺で失礼します。

征夷大将軍

征夷大将軍

 

征夷大将軍と言えば?と聞かれたら誰をとっさに思い浮かべるでしょうか?

源頼朝足利尊氏徳川家康といったあたりが有名でしょうか。

幕府の長になった人はもれなく征夷大将軍になっているというわけですね。

 

さてそれでは日本史史上最初の征夷大将軍と言えば誰なのでしょうか?

調べてみると征夷大将軍の興味深い歴史が分かってきました。

 

 

日本初の征夷大将軍が任命されたのは源頼朝征夷大将軍に任命された1192年からさかのぼることおよそ400年、794年に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)が初の征夷大将軍に任命されました

大伴弟麻呂は幕府を開いていません、もともと征夷大将軍蝦夷地(今の北海道)を平定するという役職の長という意味だったのです。

この夷いう文字は中国の四夷(しい)という考え方によるとされています。

中国を中心に考えて、四方の異民族つまり中国に従わない異民族をそれぞれ東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、南蛮(なんばん)、北狄(ほくてき)と呼びました。これらの言葉は蔑称つまり馬鹿にした言い方になります。

今でも野蛮という言葉などにそのイメージが残っています。文化の開けていない劣った民族というニュアンスがあるのです。

 

話を戻しますと、朝廷を中心に考えるとより東にある蝦夷地に住む民族は東夷にあたります。そこで東夷を征伐する将軍として征夷大将軍になったのです。

しかし実際には征夷大将軍という役職以前にも鎮東将軍や征東大使など同じ役目を担う官職が出ていましたが名称は安定せず、征夷大将軍大伴弟麻呂とその次の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)だけで、次の文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が征夷将軍になり征夷大将軍という役職はなくなってしまいます。

 

時を経て征夷大将軍が復活したのは源義仲であったと言います。

ここで少し鎌倉幕府制定までの歴史みておきましょう。

1180年平清盛後白河法皇を幽閉し絶大な権力をふるっていました、しかしそれまでに役職や財産を奪われた貴族や大寺社、地方の武士の不満は高まっていました。

平氏勢力として大きな活躍を見せていたのが源頼朝義経の軍勢と源義仲の軍勢でした。

1183年義仲の軍は越中平維盛(たいらのこれもり)率いる軍勢を撃破し〔俱利伽羅(くりから)峠の戦い〕勢いのまま京都へと攻め上り遂に京都の平氏勢力を一掃してします。京都は大喜び。

ところが義仲は継嗣問題に介入しようとしたり、軍は統率が取れず京都で盗みや暴力など問題が絶えず後白河法皇源頼朝の方に期待するようになりました。

 

源義仲平氏討伐のために中国地方へ進軍している間に、法皇から頼朝に義仲を討つように命じました。それを受け源頼朝源義経源範頼の兵を京都へ派遣することを決め移動が始まります。

朝廷が自分を討つために頼朝の軍勢を派遣したと知った義仲は急いで京都へ戻り、法皇に対して意見します、法皇のために平氏と必死に戦っていたのにあんまりだというわけです。

この時まだ範頼・義経の軍勢は京都におらず法皇と義仲の気まずい交渉が始まります。

しかし交渉の解決策もないままじりじりと義仲を討つ軍勢が近づいてきます、義仲はこうなってはと、後白河法皇を幽閉し前関白の松殿基房と組んで京都の政治を掌握してしまいます。

1184年1月、ついに範頼・義経の軍勢が美濃(今の岐阜県南部)まで近づいてきました、

義仲は法皇に自らを征夷大将軍に任命させ戦いに挑むことになりました。

頼朝の本拠地鎌倉は京都よりも東にあります、つまり迫って来る軍勢は東夷だったわけです。

結局法皇の幽閉などで人望を失っていた義仲の軍勢は小さく大敗。義仲も討ち死にしました。

 

その後源頼朝平氏征伐を命じられ、壇ノ浦でこれを討ちます。

これでめでたしかと思いきや頼朝の許可を得ず、義経法皇から官位を受けてしまいます。

ここから頼朝と義経の不仲が始まります。

義経は地盤の固い東北に入り奥州藤原氏のもとへ逃げ込みます、頼朝はこの後義経を自殺に追い込み、義経をかばうような行為をみせた奥州藤原氏も滅亡させてしまいました。

1190年には頼朝は征夷大将軍を希望しますが、法皇はこれを拒否し結局権大納言(ごんのだいなごん)、右近衛(うこのえ)大将になり、1192年の後白河法皇の死後に頼朝は征夷大将軍になりました

 

ところでどうして頼朝は、義仲がつけていた征夷大将軍の官位を欲したのでしょう?

縁起が悪いとか、印象が悪いとは思わなかったのでしょうか。

実は現在義仲が任じられたのは征東大将軍であり、征夷大将軍ではなかったのではないかという説も浮上しています。ひょっとしたら教科書の表記が変わることもあるかもしれませんね。

 

確かにそれなら納得はできなくないですが……、真偽はいかにといったところでしょうか。

 

こういう不可解な部分は調べてみたり、想像を膨らませてみたりすると面白いものです。

たまには歴史に思いをはせてみるのも良いものですね。

 

今日はこの辺で失礼します。

水__電気を通さない液体

水__電気を通さない液体

 

昔のことですがお風呂で充電中のスマートフォンを使用していた女性がうっかり湯船にスマートフォンを落下させ感電死するという事故の記事を見たことがあります。

皆さんも電気製品を使用する際は細心の注意を払ってくださいね。

 

さて今回はタイトルの通り、水は電気を通さないというお話です。

 

矛盾しているように思われるかもしれませんが実は何も間違っていません、どちらも正しいのです。それでは本編に入っていきましょう。

 

そもそも電気が通るとはどういう現象でしょうか?

実は電子という小さな粒子の移動と言い換えることができるのです。

電子はマイナスの性質を帯びているので、電子がたくさんあるとマイナスで電子が少ない場所はプラスの性質を持つことになります。

磁石のN極、S極と一緒でマイナス同士プラス同士は反発しあい、プラスとマイナスはくっつきます。片方に電子が寄っているのは不自然なので何とかもとに戻ろうとしているという見方もできると思います。

 

車を開けようとしてパチッと指に刺激が走る、あれは肌が何かの理由で電子が不足しプラスの性質になっていて、金属内の電子を引き寄せた際に起こる現象です。その電子の移動によって電気が流れるわけです。暗いところで静電気が起こると一瞬光が確認できます。

これの規模が大きいのが雷です。どちらも電子の移動には変わりがありません。

 

さて電子の移動は電気の流れであるとすると、電気が流れる物質とは電子がある程度自由に移動できる物質だということになります。

例えば銅線や鉄線などの金属は自由に電子を移動させるので電気を通せる物質(伝導体)です。一方でゴムやガラスは自由に移動できる電子がほとんどないため電気は通らない物質に分類されます(不導体、絶縁体)。

 

ここで水について考えて見ます。水は化学式で書くとH2Oです。このH(水素原子)2つとO(酸素原子)1つはなぜわざわざH2Oといった形をとっているのでしょう?

大まかに言うと水素は電子が1つ足りない、酸素は電子が2つ足りない原子なのです。

もしよかったら周期表を検索して原子番号を確認して見てください、原子番号は電子の数に等しいのです。水素の番号は1、その横の並びの右端にあるHe(ヘリウム)は原子番号2です。酸素の原子番号は8、同じ列の右端にあるネオンの原子番号は10です。実は同じ横並びの列(周期と言います)の右端にある原子はその周期で電子が最も丁度良くそろい安定した状態(基底状態)を示しています。

 

酸素原子はあと2つ電子が欲しい。

水素原子のそれぞれは、あと1つ電子が欲しい

この問題を解決するために自然がとった方法がシェアでした。

 

酸素から見れば水素2分子から電子を2つ貸してもらって電子は10つの状態。

各水素原子から見れば酸素に1つずつ電子を貸してもらって両方とも電子2つの状態。

こうすればみんな安定して存在できる……、このような結合の仕方を共有結合と呼びます。

このような都合からH2Oは存在しているのです。

 

ただでさえ足りない電子をシェアによって解決しているため、外に回せる電子が存在しないのです。よってH2Oは電気を通せないということになります。

 

ではどうしてお風呂では電気が流れたのでしょうか?

実は自然に存在している水は必ずと言っていいほど何かが溶けています

金属やミネラル……などそういうものが、水の中で電子の移動を行っているためまるで水自体が電気を通しているように見えるというわけです。

 

実際に不純物を除いた水(超純水)を人工的につくるとは電気を通すことができません。

 

 

今日はこの辺で失礼します。

 

おまけ

文部科学省が「一家に1枚」シリーズとしてPDF版の元素周期表を無料で配布しています。

他にも色々あるみたいですのでよかったら覗いてみてください。

http://stw.mext.go.jp/series.html

南方熊楠 異才の系譜

南方熊楠 異才の系譜

 

南方熊楠(みなかた くまぐす 1867~1941)、大正~昭和にかけ博物学民俗学、人類学、宗教学などの様々な分野の知識を渉猟しすべての学問の統一を図った人。

 

彼を一言でいえば狂気であった。

多くの研究者は熊楠のその成果や業績から彼の偉大さを見出そうとするが、そんなものは本質をついていない。結局私は彼が最後まで何の役にも立たない空論をもてあそんでいたにしろ、寒村でひっそり息を引き取っていたにせよ、その狂気との向き合い方に一考の価値があると考える。

彼の手紙には構成というものが存在しない、話の結末は二転三転し、脈絡もなく話題は変わり、突然話が立ち消えてしまうことさえあった。まるで彼は心の中の奔逸をそのまま紙に書き落としたようなそんな書き方をしている。

面白いことにそれは1つの手紙という形式すら超えるらしく、同じ日に2通も3通も熊楠から手紙が来ることもあったらしい。

論文でいえば、これこそ最も形式ばったもののはずなのに途中で話を変えてしまったり、猥談を挟んでしまうものだからそれを見た柳田国男が苦言を呈している。

ともかくも南方熊楠を見るにあたっては業績から熊楠の姿を類推するよりも、熊楠自身の本質を掴んだうえで見た方がよほど分かりやすいと思う。

南方熊楠柳田国男にあてた手紙の中で、自分が学問をするのはどうしようもない癇癪を鎮めるためだと説明している。実際彼は癇癪もちで幼少期から一度癇癪が生じると手が付けられなかったとか。大人になってもその性分はおさまらず大英博物館職員時代も同僚とのいさかいが原因で追い出されたり、気に喰わなかった地元の名士に殴り込みをかけたりと忙しい。

 

彼は自身の中にある狂気を膨大な知識によって飼いならそうとしていた。

この衝動はいつから来たのかは分からない。彼は幼少期の頃に『訓蒙図彙』や『和漢三才図会』などを読み込んでいた。この頃から狂気から逃れるために知識を集めていたのか、はたまた単に好奇心のままに知識を集めていたのかは定かではない。

南方熊楠辞』にこの『和漢三才図会』こそが自らの半生を構築しており、うれしいことも苦しいこともここから学んだとある。最も興味深いのはこの本で不治の病を得たとあることで、これが大学時代に出た癲癇を意味する解釈が一般的らしいが、私はこれを南方熊楠が初めて狂気を認識したと読んでも面白かろうと思う。

資料によれば満七歳で出会い、十歳で再会、十三歳で本格的に筆写し、十四歳で興味のある三分の一を写し終え。十六歳から十九歳の時、新たな版が出るにあたって読み返し、アメリカにも上巻を持っていき、下巻は二十二歳の頃に送ってもらったとあるからよほどお気に入りの本であったろう。年齢的にも多感の時期である。

いずれにせよこの幼い時に手にしたアドバンテージが後の熊楠像を形成したと思われる。

つまり狂気は説明可能で共存できるという発想を得たのではないか。

彼の発想は末広がりである、境界線はないに等しい。

彼は宇宙に存在するものごとは森羅万象であり限りなく広まっていくと考えていた、そこには人間と動物、雄と雌、生き物と死者などの垣根がなくなることを意味する。

彼は博物学などの小さな生き物を何千種も蒐集し記録をつけたことから、むしろ区別を細分化しようとしていたように見えるが、実際は逆で森羅万象という大局の解明こそが目的ではなかったか。実際彼は生物学や博物学では満足できず、宗教や民俗学などにまで足を伸ばさねばいけなかった。

最終的に彼が死ぬまで追い続けた森羅万象までの道筋が、今の細分化された学問によって解析されているだけなのであろう。彼の業績は生物学か博物学か、それとも宗教学かなんて話があるが、そこには熊楠自身が無関心であったように思われる。

混沌をそのまま、放胆にも目の前に据えて相手をしようというのだから尋常な行動ではどうにもならなかったろう。彼の奇行は以上のように考えれば必然であった。

 

ここで南方熊楠の狂気との向き合い方を考える上で重要だと思われる人物を挙げる。

それが息子の南方熊弥である。

彼は利発な少年ですくすくと問題なく育っていった、ところが大学受験のための船旅の最中突然気がふれてしまったという。急遽連れ帰された熊弥はその後、家族と共に暮らすも度々奇声を上げ暴れ出すため、泣く泣く外の病院へ出したそうである。結局熊弥は五十三歳でなくなるまで症状は良くならなかった。

一般的な解釈では、熊弥は南方熊楠の子どもであるという重圧と受験が重なり発狂したと言われている。もちろんそのような理由もあったに違いない。

しかし私はここに熊楠の天才たる所以でもあった狂気を、熊弥が引き継いでいたのではないかと思うのである。

上記であるように熊楠は大学時代に癲癇を患っており、なおかつ『和漢三才図会』を読みふけっている頃に不治の病を得たと述懐している。

そして彼の狂気との折り合いをつける方法は、圧倒的な知識量で狂気と対峙するというものであった。幼少期に常軌を逸していたような勉強によるアドバンテージが熊楠にはあった。しかし熊弥にはそれが無かった。ただただ言葉にできないような不安や恐怖、異常であるという不可解な現象に飲み込まれるだけではなかったのか。

ふと私は思うのである、もし熊弥に熊楠がその狂気との付き合い方をも教授していれば、彼は熊楠と同じように狂気と共存していけたのではないかと。

 

南方熊楠研究においてまだ熊弥は注目をされていないが、南方熊楠を狂気としてとらえなおす際に彼の存在は無視できないのではないか。

赤十字、赤新月……etc.

赤十字赤新月……etc.

 

白い背景に赤の十字。

病院といえば思わず思い浮かべてしまうくらい有名な記号ではないでしょうか。

国際赤十字赤新月運動(「赤十字運動」)によって運営される戦争や天災時における傷病者救護活動を中心とした人道支援団体のシンボルマークということになります。

つまり国際機関の赤十字運動から許可をもらった団体しか使えない重みのあるマークなのです。

因みに日本では日本赤十字著作権を持っていて、許可なく使用した場合違反者は6ヶ月以下の懲役又は30万円以下の罰金に科せられる法律があるほどです。

 

さてこの赤十字一体どういう意味があるマークなのでしょうか。

赤十字条約とも呼ばれるジュネーブ条約では、赤十字運動のきっかけを作ったアンリ・デュナンがスイス出身であったため、敬意を示し白地に赤十字といったデザインになったと説明されています(スイスの国旗は赤の背景に白十字)。

 

ところがこの説明に納得を示さない国がありました、オスマン帝国です。

オスマン帝国イスラム教国家、赤十字の十字はキリスト教のシンボルである十字架ではないかと不信感を持ちました。

もともと11世紀から13世紀にかけて、十字軍遠征によってその存在を脅かされてきた歴史のあるオスマン帝国にとって、この十字というシンボルのもとで「人を救おう」ということには抵抗があったのです。

そこでオスマン帝国赤新月(白地に赤の三日月)をシンボルとして使用することを表明し参加することになりました。

現在では全187か国中の34か国がこの赤新月を使用しています。

 

このシンボル論争、キリスト教イスラム教といった宗教の問題が根にあったのですが、中東にはもう一つ大きな宗教とそれを信じている国家がありますね。

そうユダヤ教です、ではユダヤ教を国教とするイスラエルは一体どんなマークを使用しているのでしょうか。

イスラエルの団体(マーゲン・ダビド公社)はユダヤ教のシンボルマークであるダビデの星を使った「ダビデの赤い盾(白地の背景に赤いダビデの星)」を使うことを主張しましたが認められませんでした。

赤十字運動は国を超えた人道支援団体であり一つのシンボルのもとで皆が活動するという理想があったためシンボルが増えることには慎重だったのです。(実際、オスマン帝国が新赤月というシンボルを使うことにも当初反対していました。)

そのためイスラエルの団体は活動こそするものの赤十字運動の正式なメンバーではない状態が続きました。

問題が動いたのは2005年12月8日のことでした、赤十字赤新月国際会議総会で宗教的に中立的なシンボルとして赤水晶(白地の背景に赤いひし形)を採用することにしたのです。

現在イスラエルはこの赤水晶のシンボルを使用して、2006年6月から正式な赤十字運動の一員として参加しています。

ちなみに海外で活動する際は派遣先の国から許可がおりれば、ひし形の中にダビデの星をあしらっても良いことになっています。

 

今は使われなくなった赤獅子(白地の背景、太陽を背にし剣を掲げた赤いライオン)というものもあります。

オスマン帝国赤新月を主張した際、イランもこの赤獅子を主張し許可を受けていたのです(この獅子は古代ペルシャから使用されていた伝統的シンボル)。

Wikipedia赤十字社のページにも掲載されていますので良かったら見てください、かっこいいですが明らかに異質な感じを受けます。

このシンボルは使われなくなっており、現在イランでは赤新月が使用されているようです。

 

 

こうしてみると世界史で習った遠い昔のことが今現在にも影響を与え続けているのだなと考えてしまいます。

そして日本で何気なく使われている赤十字が、世界では非常識だという見方もあるというのは多種多様な文化があることを再認識させられます。

 

それでは今回はこの辺で失礼いたします。

コロギス——コオロギのようでキリギリスみたいな昆虫

コロギス

 

♪あれ松虫が 鳴いている

ちんちろ ちんちろ ちんちろりん

あれ鈴虫も 鳴き出した

りんりんりんりん りいんりん

秋の夜長を 鳴き通す

ああおもしろい 虫のこえ

きりきりきりきり こおろぎや

がちゃがちゃ がちゃがちゃ くつわ虫

あとから馬おい おいついて

ちょんちょんちょんちょん すいっちょん

秋の夜長を 鳴き通す

ああおもしろい 虫のこえ

 

8月も中旬、虫の声がにぎやかになってきました。これから秋にかけて例年通りなら私の家の周りではコオロギやスズムシ、運がよければマツムシも聞こえてくるはずです。

良い機会なので「虫の声」の歌詞を載せてみました。

因みに7段目の歌詞は「きりきりきりきり きりぎりす」という表記のものもあります。

というのも最初はきりぎりすで書かれていて途中でこおろぎに訂正されたという経緯があるからなのです。

よく考えてみればきりぎりすは「チョン、ギース」といった擬音で表現されることが多く、とても「きりきりきりきり」と鳴くようには思えません。

最初の歌詞をつくった人はどうしてこのような歌詞にしたのでしょう?

実は昔の人はこおろぎを鳴く虫全般につかっていたそうでセミすらこおろぎだったそうです、そのなかで現在のコオロギは「きりぎりす」と言われており、現在のキリギリスは「はたをり」と呼ばれていたそうです。うーん、ややこしいですね……。

最終的には現代でも使用されている虫の名前と鳴き声で一致させるために歌詞が「きりぎりす」から「こおろぎや」に変わったと言われています。

 

 

前置きが長くなってしまいました。本題はここからです、皆さんはコロギスって見たことがありますか?

コオロギではありませんし、キリギリスでも当然ありませんよ。正真正銘、コロギス。バッタ目コロギス科です。

見た目はコオロギ似、色はキリギリス似の昆虫です。名前通りコオロギとキリギリスのあいの子みたいな恰好をしています。

もっと言うと全体が緑色で羽が茶色のコオロギにあったことはありますか?ということになります。

コオロギはバッタと違い、外部環境に合わせて色を変えることができません、なのでもしあなたが緑色のコオロギを見たのならそれは全く別の種のコロギスの可能性が高いのです。

 

さてそんなコロギス、どういう鳴き声なのか気になりませんか?

コオロギ寄りに「コロコロコロ」とか「りーりーりーりー」と鳴くのでしょうか、それともキリギリスみたいに「チョンギース」と鳴くのでしょうか?以外にも全く似ても似つかない声で鳴く……?

 

実は、コロギスは鳴けないんです。

 

今度ホームセンターとかで売っているスズムシやコオロギが居たらじっくり観察して見てください。実はスズムシやコオロギ鳴き声は翅(はね)で起こしています。これらの虫の羽はヤスリ状になっていて摩擦が起きやすくなっています。これを素早く振動させてこすってできる音が鳴き声に他なりません。

コロギスにも翅はあるのですが、このヤスリ状になっている部分がないため音が出ないのです。

 

コロギスは脚(あし)やお腹を地面に叩きつける行動が観察できます。

鳴けなくて地団太を踏んでいる……のではなく、これがコロギスの求愛表現になります

なので「とんとんとんとん」といった音を出すのです。

 

もしあなたが緑のコオロギを見かけたらそれはきっとコロギスです。

じゃあその緑のコオロギが流ちょうに鳴き始めたら……?それはコロギスではなく新種かもしれません。

 

それでは今日はこの辺で。

地球照__三日月なのに丸い月が見える……?

地球照__三日月なのに丸い月が見える……?

 

一昨日ふと空を見上げるときれいな三日月が浮かんでいました。

雲も少なく、星がその周辺に光っています。童話に出て来そうなくらい雰囲気が出ています。

しかし、見ているうちにあることが気になってきました。

どうもこの三日月、後ろにぼんやりとこげ茶のまるい影が見えるのです。見間違いかと思って眼鏡を拭いてみるも間違いなさそうです。丸いこげ茶の暗い月があり、その一部分が三日月型に光っている……?

 

何の知識もないので月食でもあったのかと家に帰って調べてみるもそのような記載は見つかりません。単に三日月がでるとだけでした。

最近のインターネットは便利なもので、「三日月 丸い」という矛盾した内容の検索で知りたい知識が引っかかってくれました

どうも地球照という現象だそうです。

 

そもそも月が日によって見え方が変わるのは、太陽と地球そして月の位置関係が変わることに由来しています。

月は丸いままですから物理的に形が三日月になったり、半月になったりは当然しません。あれは位置関係上生じる影なのです。

月、地球、太陽という位置関係なら、月は太陽の光を全面に受けています。この時は満月です。

一方で地球、月、太陽で並ぶ位置だと月が太陽光に当たっている部分の反対側しか見ることができませんから暗くて月が見えません、これが新月ですね。

このような位置関係のずれで月は新月から15日で満月になり、さらに30日目には再び新月になるわけです(正確には27.32日)。

 

つまり地球照は三日月の際に地球にあたった太陽光の反射で、太陽光を直接浴びている部分以外が照らされた状態だったのです。ちなみに月が新月に近ければ真ん丸な地球が見えるそうです。

地球が月の光を浴びているように、月もまた地球からの光を受け取っていたわけです。

そうなると月視点では、真ん丸な地球、半分しか見えない地球、爪型の地球という様々な表情を見せていることになります。なんとも壮大な風景ですね。

 

 

因みに月が満月の時にちょうど地球が太陽の光を遮るような関係になると、これが月食と言う現象になります。

実は太陽の軌道と月の軌道はずれているため太陽、地球、月が一直線になるというのは珍しいことなのです。日本で観測できるという条件を加えるとさらに厳しくなり月食だと、部分月食(つまり地球の影に月が部分的に重なる)ですが2019年1月6日まで待たなくてはいけません。

 

 

文字数に余裕があるのでもう一つ小ネタを。

月っていつも同じ面を地球に向けているのをご存知でしょうか?

天体望遠鏡で月を除くといつも同じ場所にクレーターなどの模様が確認できるのです。

月は地球の周りを一周しているのですが、じつは同じ周期で月自体も回転しているのです。

上に記した通り周期は27.32日。この日数で地球を一周し、まさに同じタイミングで月自身も一回転します。そうなると地球から見たとき常に同じ面を向けていることになるのです。

 

そんな月の隠された一面ですが、宇宙工学の技術進歩は著しく今や航空写真などで確認できてしまいます。すごい時代になったものです。

日本ではJAXAが開発した月周回衛星「かぐや」のホームページで色々な情報を見ることができます。

 

普段何気なく見ている月もまだまだ興味深い秘密をもっていそうです。

 

 

月の話はこちらでもしましたので、まだ見てない方はもしよかったらご覧になってみてください。

takenaka-hanpen.hatenablog.com