『小説十八史略(一)』1章 感想 「妲己(だっき)と言う恐怖」

『小説十八史略(一)』1章 感想

 

※ネタバレを含みます。ご注意ください。

 

傾国という言葉があるそうで、手元の辞書によれば「〔国の存在を危うくする意〕(国政の妨げになる)美人」とのこと。

第1章にも様々な見どころがあるのですが、妲己(だっき)と言う女性は圧倒的なインパクトを私に残していきました。戦争の絶えない時代、中国のみならず世界各地で女性を献上する例はあったようですが……。まさにそういう時代の生んだ狂気なのでしょうか。

簡単に内容をさらっておきましょう。

 

冒頭に堯の時代の神話から幕を開けたこの『小説十八史略』は、続いて殷の暴君紂王が支配する時代に移ります。

殷の諸侯として勢力を誇る周は、名君文公の時代。文公は、紂王は打つべき時節にないと判断しますが、その息子である発と旦の兄弟は何とか打開策はないかと頭をひねります。

そして弟の旦があることを思いつきます。

それは紂王のためだけの美女をつくり、殷の内側から国を崩すという奇想天外なものでした。そのために旦は有蘇氏の美女が娘を生んだなら養子としてもらうと言う約束までしていました。

実際に娘が生まれると内密でもらい受け、紂王の好むように育てあげます。

紂王のためだけの美女です。

 

有蘇氏が紂王に対し過失をした際、遂に妲己が殷へと入ることになりました。これで勘弁してくださいと美人を差し出すことは当時ままあったそうです。

紂王はこの妲己をいたく気に入ります。一挙手一投足、何もかもが紂王の好みですから当然です。しぐさどころか以心伝心、相性もぴったりです。なくてはならない存在になりました。

「(わしが心の底のほうで考えつき、それをまだ表面にとり出せないでいるとき、妲己  はそばから汲み取ってくれるのだ)

と紂王は思った。

こうなれば、妲己は紂王にとっては、いのちであった。」

 

さてこの妲己ですが、非常に欲深い。快楽はとことんまで追求しなくては納得のできないたちでした。なので紂王をそそのかしてあらゆることをやります。

淫らな歌曲を作らせたり、天下の富を集めたり夜を徹してのパーティーをしたり、戦争を起こさせたり、人事に口を出したりと枚挙にいとまがありません。

作中、妲己は「炮烙の刑」(銅の柱を炭火であぶったものの上を歩かせ、落ちずに端まで行ければ罪を許すというもの。ただし柱には油が塗り込んであり滑りやすい。もし落ちれば猛激しい火炎に落ちて焼け死んでしまう。)を見るのを好んだとあります。

しかし何よりも恐ろしいのは紂王が妲己の言いなりになっていることにまるで気づいていないということ。

「紂王は妲己の言いなりであった。それなのに、紂は自分ではそう思っていない。

妲己はわしの考えている通りのことを考えておる。……

他人に命令されたことのない紂は、妲己の言ったことを、しまいには自分の命令だと思い込んでしまったのである。」

 

妲己にそそのかされて紂王は自らの叔父を刑死させ、もう一人の叔父も投獄してしまいます。そこに周が挙兵し大軍が押し寄せます。

人望をとっくの昔に失った紂王の殷軍は敗走。紂王は都に戻り火を放ち死にます。

 

……妲己は、生きていました。

旦(※この頃は父親の文公が死んだため名は周公ですが、混乱しますのでそのままにさせていただきます)は一種の憐憫を感じます。自分がこういう女性に仕立てあげたのだという覚えがあります。妲己は己の役目が殷を亡ぼすためだとも何も教えられてはいなかったのです。ただ紂王のために教育され、快楽を追求するように育てられたわけですね。

この無垢な女性を助けてやりたいと旦は考えます。

 

ところが……、

紂王夫人として兵に連れられ、床に跪いていた妲己は、旦を見上げ

「これで、いいのですね?あたし、りっぱに勤めたでしょう?」

という言葉が出ます。

 

妲己は知っていたらしいんですね。自身が殷を亡ぼすために紂王の夫人になったと。

その上で紂王を良いように誑かし、残虐な行為に及び、欲を満たしていた。

 

憐れむはずの存在がこの一言で全く得体の知れない恐怖の対象に変わってしまいました。

読後、背筋にさっと寒いものが通りました。

妲己はまさに傾国の名にふさわしい存在でした。

 

これってどこまでが陳舜臣さんの想像で補われているんでしょうか……?

こうなってくると『十八史略』そのもの気になってしまいますよね。

今回は触れられませんでしたが、1章には他にもこちらも傾国で有名な褒姒や、斉の桓公誕生をめぐるエピソード(管鮑の交わりは特に良い話でした。)が見どころでしょうか。

 

第1章から見どころが大変多く愉しみな本です。

次回は第2章をご紹介したいと思います。

頭木弘樹さんの『絶望名人カフカ×希望名人ゲーテ 文豪の名言対決』——名言を比較する愉しみかたもある

 名言集には色々な種類があるけれども、ゲーテカフカを並べてみるという試みは意外でした。

 けれども頷けます。というのもこの二人、非常に対照的で並べると実際面白い。

 カフカの代表作は突飛な世界設定と展開が非常に魅力的で、主人公が突然虫になってしまう『変身』やたどり着けない城に雇われた男の話『城』、突然いわれのない罪に問われた男の話『審判』など、他の作家の追随を許さない独特な話が多いです。

 ゲーテの代表作は『ファウスト』、『若きウェルテルの悩み』などでロマン主義的な色合いが強く、生きる活力がみなぎっているような印象。

極端に言えばカフカが暗い話なのに対しゲーテは底抜けに明るいことが多いのです。

 

 この本ではそんな両者の名言をテーマごとにまとめてある。さらに面白いのはこれが対になって並べられている点でして……、

 

 例えば、「対話1 前向き×後ろ向き」では、

ゲーテ 2}良いことが待っている

希望をうしなってしまったときにこそ、良いことが待っているものだよ。

に対して

 

カフカ 2}真っ黒な波が待っている

ぼくがどの方角に向きを変えても、真っ黒な波が打ち寄せてくる

 

が配置されるというこういう配置なのです。

 ゲーテの諦めるなという強いメッセージを見た後の、カフカの絶望的なつぶやきは際立って見えます。

 各名言の後にはこの編訳をした頭木弘樹氏の解説がつきます。

 

 続いていくつか印象的な対決をご紹介しておきます、

 

「対話2 強さ×弱さ」

ゲーテ 7}大地に足を

大地にしっかりと立って、まわりを見渡すのだ。

力のある者には、世界が語りかける。

 

カフカ 7}大地がない

ぼくの足の下に、たしかな大地はありません。

はっきりとはしないまま、ぼくはとても怖れていました。

自分が地面からどれだけ浮き上がってしまっているのか、ぜんぜんわからなかったのです。

 

 危うくなったら足場を見ろとゲーテ

 そもそも足場がないとカフカ

 

「対話9 恋を楽しむ×恋に苦しむ」

ゲーテ 38}愛されて自信がつく

あの人がわたしを愛している!

——そのときから、

わたしは自分自身に、

どれほど価値を感じられるようになったことか。

 

カフカ 38}愛されても虫

なんと言っても、

あなたもやはりひとりの若い娘なのですから、

望んでいるのは、

ひとりの男であって、

足元の一匹の弱い虫ではないはずです。

 

 好きな女性を思って書いた文章のはずが真逆の展開に、

 彼女がいるから強くなれるゲーテ

 彼女がいると自分のちっぽけさが際立つカフカ

 

 さらに対話13ではゲーテカフカの共通点として「ゲーテカフカ」を対話14では「ゲーテの絶望×カフカの希望」という単なる対決に終わらないところも楽しみのひとつです。

 

 ちなみに好対照な二人の共通点は意外と多いらしく、

 本書によれば……

父方は元々低い身分であったが裕福な家庭に生まれた、父親との不和、父の要請で法学を修めるも本人は文学を志望、画家への希望、お気に入りの妹の存在、職業は役人、朗読が好き、原稿をよく焼く、未完の作品が多い、自殺を考えるも思いとどまる、恋愛のたびに名作を書いたと多数。

 一方で対照的な面として例えば……

壮健、恋愛に積極的、多食なゲーテ

痩身、恋愛に悲観的、小食なカフカと続きます。

 

 人間は生きている以上様々な問題にぶつかるわけですが、

 そんな時、人一倍の感覚で言葉を残した作家の名言は励ましや慰めになってくれるはず。

 特にカフカの名言は、名言集は明るく啓発的なものと考えている人が見ると目からうろこ間違いなしです。

 

 ゲーテで見るかカフカで見るか、個別の名言集としても比較するにしても2度おいしい名言集でした。

 

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中国史入門に陳舜臣さんの『小説十八史略』を読んでみる①。

国史入門に『小説十八史略』を読んでみる①。

 

 中国史を題材とした小説を読むときにどうにも歴史の全体の流れが分かっていればもっと楽しめるのだろうなと思うことがよくあります。

 日本の歴史文学だと日本史に疎いとはいえ、幕末なら坂本龍馬西郷隆盛、戦国なら織田信長豊臣秀吉が出てくればそれだけで親近感が湧くし、時代の流れも縄文、弥生、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町、戦国、安土桃山、江戸、そこから明治、大正、昭和、平成と大まかな流れや出来事も頭に入っているので何となくでも余裕をもって楽しめます。

 ところが中国に関しては全くといっていいほど全体の見通しがつきません……。

 元号がどのように推移したのかとか、時々の皇帝が何をしたとか、知っていたとしてもまるで大きな歴史に穴を穿つように細かいものばかりで、しかもその多くがあやふや。これではいけないと思いなおし中国史、特に通史を勉強すれば、何倍も楽しめるとこう考えました。

 こういう知識は一度入ってしまえばその後の関連する分野に応用が利きやすいので、なるべく早いうちにやっておいた方が良いに違いありません。

 

 さて机には『詳説 世界史研究』や『詳説 世界史図録』などもあるが、教科書による勉強というのはなかなか味気がない。いや、もちろん最終的にはこれらも見たいのですが、まずは軽くそして楽しく中国史全体を俯瞰できる作品が欲しい。

 

 そんなとき古本屋で良さそうなものを見つました。それがこの陳舜臣さんの『小説十八史略』。

 本の裏表紙の説明には、

「夏に先立つ幾千年、中国中原に君臨した神々。時代は下り、やがて殷へ。暴君紂王を倒して次なる世界を開いたのは周だった。その周も大動乱をへて秦に統一される。——英雄は芸道に時代に生まれる。大陸も狭しと闊歩したあまたの梟雄豪傑たち、そして美姫。その確執葛藤の織りなす人間模様を活写。〈全六巻〉」

 

 中をぱらぱらとめくると小説になっており、言葉遣いもくだけており大変親しみやすい。

 特に歴史小説はあまりカタカナ語を使わないイメージがあったのだが、作者は自由に使っている。

 例えば「紂王の命令一下、ただちに野外バーベキュー・パーティーがひらかれた。」伍子胥の復讐は、日暮れて道遠く、きわめてストレートであったが、申包胥の楚の滅亡を防ぐ努力も極めてストレートであった。」などと普通に使われていていい感じ。    

 それにしてもバーベキュー・パーティーは初めて見たとき、思わず現代風の景色を想像してしまい何ともほほえましい想像をしてしまいました。

 

 他にも巻頭に主要登場人物一覧、巻末に扱った時代ごとの地図がついており地名を確認できるつくりになっていて、引くうちに大体の人名・位置が頭に入ってきます。

 

 そもそも十八史略は元代につくられた中国史教科書で、編纂した人は曽先之(そうせんし)という人だったそう、『史記』から『新五代史』まで続く正史17種に宋の時代の史書を合わせ中国史の全体像を逸話つきで書ききったものだそうです

 更にその十八史略陳舜臣さんが現代の読者に分かるように解説を入れ、ユーモアたっぷりに再構築したのが『小説十八史略』。単なる訳書でない証拠に冒頭から『十八史略』に載っていない中国の神話から始めてしまうところからして引き込まれますね。

 

 すでに2巻まであっという間に読んでしまいましたが、面白かったエピソードなどを後に紹介しておきたいのですが、また次回にしたいと思います。

 

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アシナシトカゲ

アシナシトカゲ

 

 

茂みをゆっくりと進んでいく長い姿、舌をチロチロと出しながら目をギョロリと動かします。そして上空から鳥の鳴き声が聞こえると身を縮こませ隠れます、しばらくすると隙間から這い出てまばたきをひとつ……。

よく見ると尻尾の先がまっすぐ切られたような断面が見えます。尻尾を敵が襲われたときに切り離したのかもしれません……。

 

 

さて上記の文章で一体何を想像されたでしょうか。

ヘビと思った方は残念、実は上記の文章にはヘビにはできないことがいくつも示されています。

 

一つずつ確認してみましょう。

まず、ヘビはまばたきをしません

寝ているときでさえかっと見開いたような目をしています。

しかし実はヘビは透明のまぶたを常に閉じていると言った方が正しいのです。

と言いますのも、脱皮した皮を拾って頭の方を観察すると目の位置にも皮が残っていることが分かります。進化の過程でまぶたがくっついてしまったのです、これは地中での生活が長かったからと言われています。例えば地中で暮らすモグラの仲間には目が皮膚の下に埋まってしまっているものもいます。

ヘビに関して言えば地上に再び進出した際、まぶたの構造はそのまま透明化したと考えられています。

 

次にヘビは耳がありません。ヘビとトカゲの横顔を写真などで見比べると、トカゲには目の後ろの方に穴が開いているのを確認できます。これは人間の耳にそうとうするもので中にはちゃんと鼓膜が存在します。

一方でヘビにはそれがありません。ヘビは耳ではなく体全体で感じる振動や赤外線センサーの役目を果たすピット器官によって他の動物の動きを察知しているようです。

つまり空から声がしても構造上ヘビは感知が難しいのです、これも地中生活の長かった所以でしょうか?

またインドでは路上にヘビ使いと呼ばれる人が、笛を吹いてコブラがそれにあわせて踊る光景が見られますがおそらく音ではなく体や笛の動きに連動しているのだと考えられます。

 

さらにヘビは尻尾を切り離すこと(自切)はしません。尻尾を切ることができるのはトカゲの仲間です

「トカゲの尻尾切り」という有名な言葉があるように、トカゲは尻尾を切るものと思ってしまいそうですがトカゲ類すべてがこの自切を行うわけではないそうです。

 

この一見するとヘビの生き物たちはアシナシトカゲやヘビトカゲと呼ばれています

(でも、実際はアシナシトカゲには脚があるものも分類されています、ややこしいですね。)

トカゲとしての特徴(まばたき、耳、尻尾切り)を持っており、さらに骨格を見ると脚があった痕跡があり、一度あった脚がどんどん短くなって最後にはなくなってしまったことが分かります。

 

このように別種の動物が同じような見た目や能力を獲得することを収斂進化と呼びます

ヘビとアシナシトカゲの関係の他にも、モグラとオケラの手の形が土を掘るのに最適な形であったのか、ほぼ同じ形状であったりします、最も驚いたのはオーストラリアの有袋類(カンガルーのようにお腹に子育て用の袋がある生き物)には、よく似た生物がまるで最初から遂になるかのように確認されているのです。例えばオオカミとフクロオオカミ、ネコとフクロネコ、アリクイとフクロアリクイ……など。

このような例を見ると生き物は好き勝手に進化しているようで、何か一貫性を持っているのではないかと想像を膨らましてしまいます。

 

 

進化とは不思議なもので一定の方向を持ちません、進化と言えば常に進歩・発展しているようですが実に相対的なものであることが分かります。

きっとアシナシトカゲにとっては入り組んだ地形で生きていくために最適な進化であったに違いありません。

最善を目指したつもりが傍から見ると退化のように見えてしまうこともあるようです、しかし本人が満足であればそれが一番なのかもしれませんね。

 

 

それでは今日はこの辺で失礼します。

征夷大将軍

征夷大将軍

 

征夷大将軍と言えば?と聞かれたら誰をとっさに思い浮かべるでしょうか?

源頼朝足利尊氏徳川家康といったあたりが有名でしょうか。

幕府の長になった人はもれなく征夷大将軍になっているというわけですね。

 

さてそれでは日本史史上最初の征夷大将軍と言えば誰なのでしょうか?

調べてみると征夷大将軍の興味深い歴史が分かってきました。

 

 

日本初の征夷大将軍が任命されたのは源頼朝征夷大将軍に任命された1192年からさかのぼることおよそ400年、794年に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)が初の征夷大将軍に任命されました

大伴弟麻呂は幕府を開いていません、もともと征夷大将軍蝦夷地(今の北海道)を平定するという役職の長という意味だったのです。

この夷いう文字は中国の四夷(しい)という考え方によるとされています。

中国を中心に考えて、四方の異民族つまり中国に従わない異民族をそれぞれ東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、南蛮(なんばん)、北狄(ほくてき)と呼びました。これらの言葉は蔑称つまり馬鹿にした言い方になります。

今でも野蛮という言葉などにそのイメージが残っています。文化の開けていない劣った民族というニュアンスがあるのです。

 

話を戻しますと、朝廷を中心に考えるとより東にある蝦夷地に住む民族は東夷にあたります。そこで東夷を征伐する将軍として征夷大将軍になったのです。

しかし実際には征夷大将軍という役職以前にも鎮東将軍や征東大使など同じ役目を担う官職が出ていましたが名称は安定せず、征夷大将軍大伴弟麻呂とその次の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)だけで、次の文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が征夷将軍になり征夷大将軍という役職はなくなってしまいます。

 

時を経て征夷大将軍が復活したのは源義仲であったと言います。

ここで少し鎌倉幕府制定までの歴史みておきましょう。

1180年平清盛後白河法皇を幽閉し絶大な権力をふるっていました、しかしそれまでに役職や財産を奪われた貴族や大寺社、地方の武士の不満は高まっていました。

平氏勢力として大きな活躍を見せていたのが源頼朝義経の軍勢と源義仲の軍勢でした。

1183年義仲の軍は越中平維盛(たいらのこれもり)率いる軍勢を撃破し〔俱利伽羅(くりから)峠の戦い〕勢いのまま京都へと攻め上り遂に京都の平氏勢力を一掃してします。京都は大喜び。

ところが義仲は継嗣問題に介入しようとしたり、軍は統率が取れず京都で盗みや暴力など問題が絶えず後白河法皇源頼朝の方に期待するようになりました。

 

源義仲平氏討伐のために中国地方へ進軍している間に、法皇から頼朝に義仲を討つように命じました。それを受け源頼朝源義経源範頼の兵を京都へ派遣することを決め移動が始まります。

朝廷が自分を討つために頼朝の軍勢を派遣したと知った義仲は急いで京都へ戻り、法皇に対して意見します、法皇のために平氏と必死に戦っていたのにあんまりだというわけです。

この時まだ範頼・義経の軍勢は京都におらず法皇と義仲の気まずい交渉が始まります。

しかし交渉の解決策もないままじりじりと義仲を討つ軍勢が近づいてきます、義仲はこうなってはと、後白河法皇を幽閉し前関白の松殿基房と組んで京都の政治を掌握してしまいます。

1184年1月、ついに範頼・義経の軍勢が美濃(今の岐阜県南部)まで近づいてきました、

義仲は法皇に自らを征夷大将軍に任命させ戦いに挑むことになりました。

頼朝の本拠地鎌倉は京都よりも東にあります、つまり迫って来る軍勢は東夷だったわけです。

結局法皇の幽閉などで人望を失っていた義仲の軍勢は小さく大敗。義仲も討ち死にしました。

 

その後源頼朝平氏征伐を命じられ、壇ノ浦でこれを討ちます。

これでめでたしかと思いきや頼朝の許可を得ず、義経法皇から官位を受けてしまいます。

ここから頼朝と義経の不仲が始まります。

義経は地盤の固い東北に入り奥州藤原氏のもとへ逃げ込みます、頼朝はこの後義経を自殺に追い込み、義経をかばうような行為をみせた奥州藤原氏も滅亡させてしまいました。

1190年には頼朝は征夷大将軍を希望しますが、法皇はこれを拒否し結局権大納言(ごんのだいなごん)、右近衛(うこのえ)大将になり、1192年の後白河法皇の死後に頼朝は征夷大将軍になりました

 

ところでどうして頼朝は、義仲がつけていた征夷大将軍の官位を欲したのでしょう?

縁起が悪いとか、印象が悪いとは思わなかったのでしょうか。

実は現在義仲が任じられたのは征東大将軍であり、征夷大将軍ではなかったのではないかという説も浮上しています。ひょっとしたら教科書の表記が変わることもあるかもしれませんね。

 

確かにそれなら納得はできなくないですが……、真偽はいかにといったところでしょうか。

 

こういう不可解な部分は調べてみたり、想像を膨らませてみたりすると面白いものです。

たまには歴史に思いをはせてみるのも良いものですね。

 

今日はこの辺で失礼します。

水__電気を通さない液体

水__電気を通さない液体

 

昔のことですがお風呂で充電中のスマートフォンを使用していた女性がうっかり湯船にスマートフォンを落下させ感電死するという事故の記事を見たことがあります。

皆さんも電気製品を使用する際は細心の注意を払ってくださいね。

 

さて今回はタイトルの通り、水は電気を通さないというお話です。

 

矛盾しているように思われるかもしれませんが実は何も間違っていません、どちらも正しいのです。それでは本編に入っていきましょう。

 

そもそも電気が通るとはどういう現象でしょうか?

実は電子という小さな粒子の移動と言い換えることができるのです。

電子はマイナスの性質を帯びているので、電子がたくさんあるとマイナスで電子が少ない場所はプラスの性質を持つことになります。

磁石のN極、S極と一緒でマイナス同士プラス同士は反発しあい、プラスとマイナスはくっつきます。片方に電子が寄っているのは不自然なので何とかもとに戻ろうとしているという見方もできると思います。

 

車を開けようとしてパチッと指に刺激が走る、あれは肌が何かの理由で電子が不足しプラスの性質になっていて、金属内の電子を引き寄せた際に起こる現象です。その電子の移動によって電気が流れるわけです。暗いところで静電気が起こると一瞬光が確認できます。

これの規模が大きいのが雷です。どちらも電子の移動には変わりがありません。

 

さて電子の移動は電気の流れであるとすると、電気が流れる物質とは電子がある程度自由に移動できる物質だということになります。

例えば銅線や鉄線などの金属は自由に電子を移動させるので電気を通せる物質(伝導体)です。一方でゴムやガラスは自由に移動できる電子がほとんどないため電気は通らない物質に分類されます(不導体、絶縁体)。

 

ここで水について考えて見ます。水は化学式で書くとH2Oです。このH(水素原子)2つとO(酸素原子)1つはなぜわざわざH2Oといった形をとっているのでしょう?

大まかに言うと水素は電子が1つ足りない、酸素は電子が2つ足りない原子なのです。

もしよかったら周期表を検索して原子番号を確認して見てください、原子番号は電子の数に等しいのです。水素の番号は1、その横の並びの右端にあるHe(ヘリウム)は原子番号2です。酸素の原子番号は8、同じ列の右端にあるネオンの原子番号は10です。実は同じ横並びの列(周期と言います)の右端にある原子はその周期で電子が最も丁度良くそろい安定した状態(基底状態)を示しています。

 

酸素原子はあと2つ電子が欲しい。

水素原子のそれぞれは、あと1つ電子が欲しい

この問題を解決するために自然がとった方法がシェアでした。

 

酸素から見れば水素2分子から電子を2つ貸してもらって電子は10つの状態。

各水素原子から見れば酸素に1つずつ電子を貸してもらって両方とも電子2つの状態。

こうすればみんな安定して存在できる……、このような結合の仕方を共有結合と呼びます。

このような都合からH2Oは存在しているのです。

 

ただでさえ足りない電子をシェアによって解決しているため、外に回せる電子が存在しないのです。よってH2Oは電気を通せないということになります。

 

ではどうしてお風呂では電気が流れたのでしょうか?

実は自然に存在している水は必ずと言っていいほど何かが溶けています

金属やミネラル……などそういうものが、水の中で電子の移動を行っているためまるで水自体が電気を通しているように見えるというわけです。

 

実際に不純物を除いた水(超純水)を人工的につくるとは電気を通すことができません。

 

 

今日はこの辺で失礼します。

 

おまけ

文部科学省が「一家に1枚」シリーズとしてPDF版の元素周期表を無料で配布しています。

他にも色々あるみたいですのでよかったら覗いてみてください。

http://stw.mext.go.jp/series.html

南方熊楠 異才の系譜

南方熊楠 異才の系譜

 

南方熊楠(みなかた くまぐす 1867~1941)、大正~昭和にかけ博物学民俗学、人類学、宗教学などの様々な分野の知識を渉猟しすべての学問の統一を図った人。

 

彼を一言でいえば狂気であった。

多くの研究者は熊楠のその成果や業績から彼の偉大さを見出そうとするが、そんなものは本質をついていない。結局私は彼が最後まで何の役にも立たない空論をもてあそんでいたにしろ、寒村でひっそり息を引き取っていたにせよ、その狂気との向き合い方に一考の価値があると考える。

彼の手紙には構成というものが存在しない、話の結末は二転三転し、脈絡もなく話題は変わり、突然話が立ち消えてしまうことさえあった。まるで彼は心の中の奔逸をそのまま紙に書き落としたようなそんな書き方をしている。

面白いことにそれは1つの手紙という形式すら超えるらしく、同じ日に2通も3通も熊楠から手紙が来ることもあったらしい。

論文でいえば、これこそ最も形式ばったもののはずなのに途中で話を変えてしまったり、猥談を挟んでしまうものだからそれを見た柳田国男が苦言を呈している。

ともかくも南方熊楠を見るにあたっては業績から熊楠の姿を類推するよりも、熊楠自身の本質を掴んだうえで見た方がよほど分かりやすいと思う。

南方熊楠柳田国男にあてた手紙の中で、自分が学問をするのはどうしようもない癇癪を鎮めるためだと説明している。実際彼は癇癪もちで幼少期から一度癇癪が生じると手が付けられなかったとか。大人になってもその性分はおさまらず大英博物館職員時代も同僚とのいさかいが原因で追い出されたり、気に喰わなかった地元の名士に殴り込みをかけたりと忙しい。

 

彼は自身の中にある狂気を膨大な知識によって飼いならそうとしていた。

この衝動はいつから来たのかは分からない。彼は幼少期の頃に『訓蒙図彙』や『和漢三才図会』などを読み込んでいた。この頃から狂気から逃れるために知識を集めていたのか、はたまた単に好奇心のままに知識を集めていたのかは定かではない。

南方熊楠辞』にこの『和漢三才図会』こそが自らの半生を構築しており、うれしいことも苦しいこともここから学んだとある。最も興味深いのはこの本で不治の病を得たとあることで、これが大学時代に出た癲癇を意味する解釈が一般的らしいが、私はこれを南方熊楠が初めて狂気を認識したと読んでも面白かろうと思う。

資料によれば満七歳で出会い、十歳で再会、十三歳で本格的に筆写し、十四歳で興味のある三分の一を写し終え。十六歳から十九歳の時、新たな版が出るにあたって読み返し、アメリカにも上巻を持っていき、下巻は二十二歳の頃に送ってもらったとあるからよほどお気に入りの本であったろう。年齢的にも多感の時期である。

いずれにせよこの幼い時に手にしたアドバンテージが後の熊楠像を形成したと思われる。

つまり狂気は説明可能で共存できるという発想を得たのではないか。

彼の発想は末広がりである、境界線はないに等しい。

彼は宇宙に存在するものごとは森羅万象であり限りなく広まっていくと考えていた、そこには人間と動物、雄と雌、生き物と死者などの垣根がなくなることを意味する。

彼は博物学などの小さな生き物を何千種も蒐集し記録をつけたことから、むしろ区別を細分化しようとしていたように見えるが、実際は逆で森羅万象という大局の解明こそが目的ではなかったか。実際彼は生物学や博物学では満足できず、宗教や民俗学などにまで足を伸ばさねばいけなかった。

最終的に彼が死ぬまで追い続けた森羅万象までの道筋が、今の細分化された学問によって解析されているだけなのであろう。彼の業績は生物学か博物学か、それとも宗教学かなんて話があるが、そこには熊楠自身が無関心であったように思われる。

混沌をそのまま、放胆にも目の前に据えて相手をしようというのだから尋常な行動ではどうにもならなかったろう。彼の奇行は以上のように考えれば必然であった。

 

ここで南方熊楠の狂気との向き合い方を考える上で重要だと思われる人物を挙げる。

それが息子の南方熊弥である。

彼は利発な少年ですくすくと問題なく育っていった、ところが大学受験のための船旅の最中突然気がふれてしまったという。急遽連れ帰された熊弥はその後、家族と共に暮らすも度々奇声を上げ暴れ出すため、泣く泣く外の病院へ出したそうである。結局熊弥は五十三歳でなくなるまで症状は良くならなかった。

一般的な解釈では、熊弥は南方熊楠の子どもであるという重圧と受験が重なり発狂したと言われている。もちろんそのような理由もあったに違いない。

しかし私はここに熊楠の天才たる所以でもあった狂気を、熊弥が引き継いでいたのではないかと思うのである。

上記であるように熊楠は大学時代に癲癇を患っており、なおかつ『和漢三才図会』を読みふけっている頃に不治の病を得たと述懐している。

そして彼の狂気との折り合いをつける方法は、圧倒的な知識量で狂気と対峙するというものであった。幼少期に常軌を逸していたような勉強によるアドバンテージが熊楠にはあった。しかし熊弥にはそれが無かった。ただただ言葉にできないような不安や恐怖、異常であるという不可解な現象に飲み込まれるだけではなかったのか。

ふと私は思うのである、もし熊弥に熊楠がその狂気との付き合い方をも教授していれば、彼は熊楠と同じように狂気と共存していけたのではないかと。

 

南方熊楠研究においてまだ熊弥は注目をされていないが、南方熊楠を狂気としてとらえなおす際に彼の存在は無視できないのではないか。