「司馬遼太郎で歴史を楽しむ『関ケ原』……はじめに」

司馬遼太郎で歴史を楽しむ『関ケ原』……はじめに」

いよいよ8月26日から、映画版の『関ケ原』が公開される。それにあたって記事を書いてみることにする。今回は司馬遼太郎の『関ヶ原』の魅力と実際の関ケ原の戦いについて。映画の情報を知りたいという方は他をあたってください。

司馬遼太郎の『関ケ原』を読み解くにあたって、
まずは知識の整理をしておくことにしよう。
これは情報(点)にあたり、ここから様々な想像力を巡らし物語(線)ができたのである。
教科書は最低限ながら精度の高い点であるためここを見ておくことは肝要である。
手元にある『詳説日本史研究』では関ケ原周辺は半ページほどに書かれている。
それほどの長さでもないためすべて引用しておくことにしよう。

幕藩体制の成立
江戸幕府の成立
 かつて織田信長と同盟し、東海地方に勢力をふるった徳川家康(1542~1616)は、豊臣政権にくみし、1590(天正18)年に北条氏滅亡後の関東に移封されて、約250万石の領地を支配する大名となった。
江戸を拠点にした家康は、江戸城の拡大・整備や神田上水をひくなどの町づくりを進めた。家臣団の配置では、小身の者には江戸城近くに知行地を与え、万石以上の大身は領国周辺部に配置して、江戸の防衛と両国全体の安定を保った。
 こうして領国経営を充実させる一方、豊臣政権の五大老の筆頭として重きをなし、文禄・慶長の役にも出兵せず、力を蓄えた。1598(慶長3)年に豊臣秀吉が死去すると、家康の地位は浮上した。
 家康と対立したのが、豊臣政権を支えてきた実務官僚である五奉行の一人石田三成であった。光成は小西行長らとともに五大老の一人毛利輝元を盟主にして、宇喜多秀家島津義弘(1535~1619)らの西国諸大名を味方につけて兵をあげた(西軍)。対する東軍は、家康と彼にしたがう福島正則(1561~1624)、加藤清正(1562~1611)、黒田長政(1568~1623)らの諸大名で、三成と通じた会津上杉景勝との戦いのあと、東西両軍は1600(慶長5)年9月、美濃の関ケ原で衝突した(関ケ原の戦い)。東軍10万4000人、西軍8万5000人の天下分け目の戦いは、小早川秀秋(1582~1602)の内応により東軍の大勝となった。家康は、石田三成小西行長らを京都で処刑したほか、宇喜多秀家八丈島に流し、西軍諸大名90家、440万石を改易(領地削減)した。また、毛利輝元は120万石から37万石に、上杉景勝は120万石から30万石に減封(領地削減)された。逆に東軍の将士はその分加増され、新たに28の譜代大名が取り立てられた。
『詳説日本史研究』P.240

関ケ原の戦いに関して簡単にまとめれば、
関ケ原の戦い(1600年9月)とは、秀吉亡き後の勢力争いであること。
②この戦いでは徳川家康率いる東軍と石田三成毛利輝元の西軍がぶつかり合い。
 結果東軍が勝利した。
勝利には小早川秀秋が関与した。
④東軍の主な武将は福島正則加藤清正黒田長政
⑤西軍の主な武将は宇喜多秀家島津義弘
というようなことになるであろう。

これらの情報(点)が今後の司馬史観と言う物語(線)を紐解く足掛かりとなる。
可能性と確定した情報を分けるのは大切なことである。
どこまでが知識でどこからが想像なのかこの当たりをつけることができれば歴史は非常に奥深さが増すのである。

最後にこの点を並べて考え付く疑問点を先に列挙しておく、
これらの疑問符は高校性の持っている教科書、資料集、用語集を隈なく見ていると浮かび上がるもので、
特別難しいものではない。以下のように何でこうなるのか?というような視点を持つと単に暗記科目として
やみくもにあたるよりもにわかに面白味を増してくる。

疑問点
①西軍の大将はなぜ石田三成ではなく毛利輝元なのか?
②東軍になぜ秀吉に寵愛を受けた武将が多く参加しているのか?
 特に加藤清正福島正則は子供の頃から秀吉に見出された武将で特に恩が深いはず。
③なぜ家康は、西軍大将の毛利輝元は減封で石田三成は殺したのか?
小早川秀秋は一体何をしたのか?
⑤そもそもなぜ家康と三成はぶつかることになったのか?

司馬遼太郎はこの関ケ原の戦いを文庫にして3巻という内容に落としこんでいる。
そしてこの文章の中に司馬遼太郎ならではの回答が提示される。
それが正解と言うわけではない。それに対して賛同も反対も自由である。
重要なのはあなたはどう思うか?ということに他ならない。

今回の読解で注意しておくべきはただ一つ。
点を意識しておくこと、以上である。
点は逐一提示させていただくので、あとは司馬遼太郎の世界にどっぷりとはまっていただければ幸いである。
長くなってしまったが次回から本文へと入っていく。