「司馬遼太郎で歴史を楽しむ『関ケ原』__一回目」 石田三成に見る5つのキーワード

司馬遼太郎で歴史を楽しむ『関ケ原』……一回目」
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前回で教科書的な観点からの「関ケ原の戦い」についての知識の整理と、そこから導き出される疑問点を整理しました。
詳しくは前回のページをご覧ください。

takenaka-hanpen.hatenablog.com

今回から司馬遼太郎の内容に入っていくのですが分量が多いため、上巻・中巻・下巻と一冊ずつ内容を吟味していこうと思っています。

今回と次回にかけて、この本の主役ともいえる石田三成徳川家康について上巻のなかでまとめておこうと思います。
一体司馬遼太郎はこの二人にどのようなキャラクター性を与えたのか?
ここを抑えておくと全体を見渡すのに非常に便利です。

また別の記事として、小説で歴史を見る際の注意点をまとめておこうと思います。
でき次第リンクを貼らせていただこうと思っています。

 

1. 石田三成について
石田三成に見る5つのキーワード
① 吏才
関ケ原』の冒頭は司馬遼太郎氏の少年期の回想から始まります。その時聞かされた話は石田三成がまだ寺の小僧であった時、初めて豊臣秀吉と邂逅した際の逸話です。
簡単にまとめますと、
秀吉は喉の渇きを潤すため寺に入り茶を所望した。それに対応したのが三成。
三成はまず大きな茶碗の七、八分にぬるいお茶を入れ出した。
一気に飲み干しもう一杯と秀吉。
次に三成は湯をやや熱くし最初の半分ほどの量にした。
さらに次の杯では、舌の焼けるような熱めのお茶で小茶碗にほんの少しだった。
その器量に感心した秀吉が三成を城にもらい受けることにしたと言う。
このような話で三成の器量の良さを表しています。
この当時秀吉は部下が少なく、良さそうな人物はどんどんスカウトしていっていたようです。

他にも朝鮮出兵時の渡海運輸について、司馬氏は「…これだけの大軍を輸送するばあいの、これは世界戦史上の稀有な成功といっていい。」と絶賛。
この時運搬されたのは二十万人の兵に、兵糧、馬とその餌、武器など。これを四万もの船に乗せ、さらに出航や積み下ろしを計画したそうです。
他にもこのような政治家としての才能の話には事欠かない三成。この才能を認め秀吉は三成を重用し続けました。
② 正義漢
石田三成はさらに『関ケ原』で正義をこよなく愛する男として書かれます。
石田三成の家臣で、自信も名高い武将である島左近石田三成に対して人は利で動くと諫めます。これは三成が人は正義で動くべきと言う価値観を持っていたからです。
左近の言うように、秀吉麾下の武将たちは多くが秀吉に感服したわけではなく損得勘定で集まっていると言う状況だとすれば、秀吉の跡継ぎの秀頼が自動的に二代目になるかどうかは怪しいことになります。
司馬遼太郎も豊臣政権で倫理や道徳が浸透するにはあと二代か三代は必要であったと書いています。
秀吉が死んだ時、秀頼は六歳。権力を掌握するにはあまりに幼すぎます。損得勘定で動く武将は戦争の可能性も視野に入れ、次の権力者は徳川家康と歩み寄った人たちもいたようです。
家康に歩み寄り恩を売っておくという姿勢は、厳しい戦国の世を生き抜いてきた武将たちの生存戦略として一般的なものだったと思います。
しかし、石田三成豊臣秀吉の恩を忘れ権力簒奪に動く徳川家康とその取り巻きは正義をないがしろにする奴らだと憤慨するのです。
③ 嫌われ者
正義感の強い三成は妥協を許さない男としても書かれます。
例えば朝鮮戦争の際、加藤清正小西行長はどちらが京城に先につくかで競争になり、結果は小西行長が一日早く着きました。悔しがった清正は一計を案じ、
「——何月何日、京城に入りました。」と行長より早く報告することにします。この文面には真っ先にや一番乗りでとは書かれておらず後でとがめられても事実を報告したまでと言えるという妙案でした。
幸い行長の報告よりも早く秀吉のもとに届き、秀吉は清正が一番乗りと思い感状を出します。
三成はと言えば「それは間違いでございます」と事実を述べ、むしろ清正の負けず嫌いな性格が作戦の支障になっていると分析します。司馬氏は「秘書官としては当然なこと」をしたとして、一方で「前線にいる実戦部隊の感情を害することははなはだしかった。」としています。
秀吉は三成の報告を聞いて「——虎之助め。おのれの武辺立てのみに熱心で全体の建前をこわすやつ。」と激怒。清正への評価は一気に落ちてしまいます。
清正は三成が讒言をしたと考え、三成・清正間の関係も冷え込みました
このような事実をオブラートに包まず真実のみを求める三成と、その場の流れを読み勢いで問題を解決し面子を大切にする武将達との軋轢がうかがえます。
石田三成は前線で活躍する武将たちにとっては非常に厄介者であると考えられていたようです。ここから三成は嫌いだから東軍についた武将もいたのではないかという考えも出てきます。

個人的には真実を述べつつ清正も秀吉にいいところを見せたくて焦ったのでしょう。悪気はなかったはずですと誘導し、秀吉にこれも虎之助の愛嬌かと思わせる芸があれば……と思えてなりません。
④ 近江閥
これに関してもなぜ秀吉子飼いの武将、例えば加藤清正福島正則が東軍についたかと言う疑問の答えの一つになります。
近江閥はその名の通り近江出身の大名でその特徴は「才智才覚に長けた者が多く」、執政官であった五奉行の内の三人が近江出身(石田三成長束正家増田長盛)であったと書かれています。
近江出身の彼らは秀吉が天下統一を終え、調整をし始めた頃から重用されます
今までは戦争上手が必要だったけれど、統一してからはどのように土地を分けるか、税を取り立てるかなどをやる人材が必要になったということです。
彼らは秀吉の側室で、秀頼の母でもある淀殿を中心に集まっていました。

これに対抗心を持っていたのが、秀吉が織田信長の一兵隊の頃から拠点にしていた尾張時代に集っていた武将達で、作品中では北政所のもとに集まったことから「北政所党」と表現されていたりします。北政所は秀吉の正妻で、秀吉が雑兵の頃に結婚をしました。
北政所のもとに集まる武将は戦場で武功を挙げることで名を成しました。
豊臣秀吉の天下を実現したのは我々だと言う自負があり、後から来たくせに寵愛を受けている近江閥には反感を持っていたという風に書かれています。

東軍、西軍などと言う話が出る前から尾張閥と近江閥が反目しあっていると言う構図があったようです。
⑤ 度胸
三成は上巻の中だけでもかなり思い切った行動をしています。
一つは秀吉の遺命に背き宴会を開いていた徳川側の武将たちのところへ単身欠けつけ参加を表明します。席に着き酒を煽って一言「きょうは、なんのお集まりでござったか」と空とぼけた口調で言い切ります。
しかも彼の服装は喪服だったと書かれていますから、これは強烈な皮肉です。
もうひとつは、徳川方についた武将達により命を狙われ潜伏する三成がとった行動です。三成はもはや逃げ場が無いと考えあろうことか家康の邸宅に現れ匿ってくれと頼みに来たのです。これは家康が自分をここでは殺すまいと言う賭けに出たということです。家康が殺すならもっと最適な時期があることを知っているはずと言う息の詰まるような心理戦が繰り広げられたわけです。
結果、三成はこの窮地を脱することになりました。
単に頭がいいだけではなく、時に豪胆な方法に打って出る度胸も持っていたという風に作中では書かれています。

2. 補足
石田三成(1560~1600)
近江に生まれ秀吉に仕えた武将。五奉行の一人で内政面に練達した。文吏派の一人。関ケ原の戦いで敗れて処刑される。
日本史B用語集 改訂版』

3. 次回
次回は徳川家康がどのようなキャラクターとして設定されているかを同じように五つのキーワードで見てみたいと思います。