僕は新聞が読めない__ヒトラーは結局どういう人物か?

僕は新聞が読めない__1
ヒトラーは結局どういう人物か?

 


1.記事について
麻生太郎副総理は29日、横浜市で開いた麻生派研修会の講演で、「少なくとも(政治家になる)動機は問わない。結果が大事だ。何百万人も殺しちゃったヒトラーは、いくら動機が正しくてもダメなんだ」と発言した。
 麻生氏は2013年に憲法改正をめぐり、ナチス政権を引き合いに「手口を学んだらどうか」と発言し、国内外から批判を浴び、撤回している。今回は、政治家のあり方に言及した際の文脈での発言だったが、今後問題になる可能性がある。〉
(2017年8月30日 朝日新聞 朝刊より )

麻生福総理の際どい発言が取りざたされた記事。
記事にもあるように麻生副総理は以前にも、憲法改正についてコメントし「憲法は、ある日気づいたら。ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口を学んだらどうかね」と発言し批判を浴びています。

補足:ワイマール憲法とヴァイマール憲法は同じものです。

 

2.疑問点
今回は麻生氏が何を意図してこのような発言をしたのでしょう?
ヒトラーで思い浮かぶ内容と言えば、ナチ党の総統で世界第二次大戦のきっかけとなった人物でアーリア人至上主義者をひっさげユダヤ人虐殺を行った……くらいでしょうか。
一言でいえば極悪人と言うイメージです。
しかし、そもそもそういう人物がどうやって政権を掌握し国の代表になりえたのでしょうか?第二次世界大戦後の彼は有名ですがその前は……?
今回はヒトラーが権力を掌握するまでを取り上げて知識の整理をしてみようと思います。


3.知識の整理
ヒトラー Hitler 1889~1945
オーストリア生まれのドイツの独裁政治家。1921年以降ナチスの党首となり、ヴェルサイユ体制打破と反ユダヤ主義・反共産主義を声高にとなえた。恐慌による社会危機に乗じて33年に政権を獲得。徹底的な独裁を確立してドイツに恐怖政治をしき、露骨な膨張・侵略政策を強行して第二次世界大戦をおこし、敗戦直後に自殺した。

国民(国家)社会主義ドイツ労働者党 Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei
第一次世界大戦後に設立された右翼政党。1920年にドイツ労働者党から改称した。ナチスは略称。大恐慌後、社会不安に乗じてテロもまじえた強引な行動力と、たくみな宣伝力で人びとをひきつけ、中小農民や、とくに官僚・商店主・中小企業主などの中産階級の支持を受けて勢力を急速に拡大させた。その後、共産党の進出に危機感を抱いた資本家や軍部からも支持を得て、33年党首のヒトラーが首相になり政権を獲得するにいたった。

『世界史B用語集 改訂版』より。

 

1919年ドイツは第一次世界大戦に負け、ヴェルサイユ条約を承認しました。
条約による制裁や賠償金でただでさえ戦後で苦しい状況で、政権を握る社会民主党共産党は意見の対立を抱えていました。
共産党民主化、社会改革を進めるべきとし兵士・労働者の革命組織(レーテ)を支援します。
一方保守派の社会民主党は軍部や経済界と結びつき、講和交渉や平時体制への移行を目指します。改革は政治内に留めるべきと言う考えでした。
ヴァイマール憲法判定会議が迫る中、社会民主党は反対勢力を武力で制圧します。
Point.ヴァイマール憲法制定を前に左派と右派の政治的対立が激化していた。

 

七月には憲法制定会議があり、ここで有名なヴァイマール憲法が制定され同時に国名がヴァイマール共和国となります。初代大統領には社会民主党エーベルトが就任しました。
ヴァイマール憲法は当時最も民主的な憲法で、参政権公民権生存権、労働権の保障、青少年や家族の保護などが盛り込まれました。
Point.第48条は「大統領緊急令」、非常事態には首相が立法権を持てた。

 

一部の保守派やナチ党、共産党は敗戦とヴェルサイユ条約の責任をとらずに政権を維持していることに反発します。1923年にはナチ党のヒトラーが暴動を起こすも鎮圧されます(ヒトラー一揆)。歴史を一変させてしまうあのヒトラー本人です。この時期から結構過激ですね。懲りたのか政権奪取まで影を潜めます。
経済面では、戦後インフレが昂進しました。お金の信用は下がり物価が上昇、国民は苦しい生活を強いられます。1923年にはフランス・ベルギーがドイツは賠償責任を満たしていないとルール地方を占領したことがきっかけでさらにインフレは悪化します。
1924年にはアメリカが資本を導入することでインフレはひとまず落ち着きます。
Point.ヒトラー一揆の結果、ヒトラーは逮捕。ただ司法界には反共和国の人が多く判決は寛大であったとされる。『我が闘争』は獄中で書かれた。


1929年アメリカで金融恐慌が起こり次いでドイツも経済が破綻し国会が機能停止します。
この頃発足したブリューニング内閣はデフレと増税でこの難局を乗り切ろうとしますが、国会で承認が下りず民意を問うため選挙を行います。
自分が正しいと証明するための選挙のはずが……、結果は反対派のナチ党や共産党の大勝でした。
国会は反対派多数のためブリューニング内閣は思うような立法ができません。
そこで考え出したのがヴァイマール憲法の第48条「大統領緊急令」でした
この条項でブリューニングは国会審議を通さず法律を作成できます。ただし公布後は速やかに国会に報告され、そこに否決権を持ち無効にする機能があります。ドイツには首相をトップとする内閣の更に上に大統領がいます。大統領は強い権限を持っていますので緊急事態とみなせばこういうことが可能でした。人気のないブリューニング内閣だが、ナチ党なんかには政権は任せたくないという考えがあったようです。
Point.ヒトラーの前にブリューニング内閣と言う独裁的な色合いが強い政権があった。
ブリューニングはオーストリアと関税同盟案を発表しフランス・ポーランドの緊張を招きます。また徹底的なデフレ政策を行います。これにより国内は疲弊しきりドイツは賠償責任を果たせる状況ではないと判断され負担のほとんどが無効化されました。ただしその判断の頃にはブリューニングは既に失脚していましたが。

 

ヒンデンブルグ大統領はより右派の政治家を首相に任命するも効果はなく、1932年に第一党となっていたナチ党と組む以外大衆基盤を確保できない状況に追い込まれました
首相に任命されたヒトラーは反対を押し切り即解散、選挙に踏み切ります。
この際、ラジオなどのマスメディアの利用や相手政党への妨害、国会議事堂放火事件に共産党が関与したとして行った共産党の追放をするもナチ党のみでは過半数に届かず保守派との連立となります。ヒトラーは強引に全権委任法を成立させ、これによりヴァイマール憲法は形骸化しナチ党は一党独裁推し進めました。
Point.ヒトラーは与党になるためマスメディアを活用。同時に暴力的な方法もとった。


ナチスの政策は、国連脱退、中央集権化による州の自治体制の廃止、ナチ党内部の一部急進派と保守反対勢力を暴力的に排除(レーム事件)と進んでいきます。
一方で、経済対策としてアウトバーン建設などの公共事業の拡大。国内の自給率を高めようとする四ヵ年計画を行い、国内の失業者をほぼ無くしました。これは世界恐慌に悩んでいた各国から高い評価を受けます。
他にも余暇組織の設立やラジオの普及、貧困層への救済事業、結婚資金の貸付制度など福祉社会事業の拡大が行われます
また1936年にはベルリンオリンピックを行い国民の自尊心の回復を達成しました。
こうした政策から1936~1937年には「なんだヒトラー良いやつじゃないか」と国民からナチ党は多くの支持を得たわけです。
Point.手荒なこともしたが経済対策の成功や五輪誘致などで政治家として人気を集めた。
こうして国内基盤を確立したヒトラーはイギリスと軍事協定を結び、戦争へと舵を切ります。そうして起こったのが第二次世界大戦でした。
『詳説世界史研究』、山川出版社


4.まとめ
今回の調べでヒトラーが全権委任法を成立させる前から、国会を通さずに立法を行う大統領緊急令などの濫発(ブリューニング内閣)で政治は破綻寸前であったことが分かりました。
民意を問うて結果が気に食わないから無かったことにするようでは民主的ではありません。
既に政治は無法状態で、こここそヒトラーが台頭する要因であったようにも思えます
信用を失った保守派とは逆に絶望的な民意の受け皿となったのがナチ党であったようです。

教科書には書かれていませんが『山川 世界史小辞典』(山川出版社)によれば全権委任法の成立に関して、「政府は共産党議席剥奪や野党議員への恫喝など強引な方法で、社会民主党の反対のみで可決させた」とあります。およそ民主的なものとは言えそうもありません。
この全権委任法の成立によって最も民主的なヴァイマール憲法はその機能を失います。以降ヒトラーは己の野望をかなえるために軍を進め世界二次大戦のきっかけを作っていくわけです。

そんな中でヒトラーが国内の疲弊した経済を解決したと言う一面は初めて知りました。
歴史にifはないとはよく言いますが、もしヒトラーが国内の充実のみで満足していたなら彼は稀代の政治家として名前が残っていた可能性も……。
こうして整理してみると冒頭の麻生副総理の発言は、
ヒトラーの動機は正しくなかったが、結果次第では名政治家になりえた」と言うような意味だったのではないかと思えます。

実際のところ世界大戦を起こし、反ユダヤ主義をもとに多くの殺人を行ったヒトラーは許されるべきではありません。かといって感情的に「悪いとみんなが言っているから悪い」と言うような論調にただ乗るのでは真相は分かりません。
問題はしっかりと情報を整理し何が行われたのかを冷静に吟味し自分なりの解釈をもっておくことであると思います。
失敗から学ぶのも歴史の見方の一つではないかと改めて思うのです。

以上をもって今回の調査を終えます。ご視聴ありがとうございました。
●併せて読みたい本として
ヒトラーヒトラー一揆で監獄にいた際に書いた我が闘争では、ヒトラーの考えの祖型を垣間見ることができます。
迫害されるユダヤ人の視点で書かれているアンネの日記は世界的に有名な本で世界的に読み継がれています。
ここに並べて良いのか分からないですが、『帰ってきたヒトラーはドイツ人のヒトラー像の一端が分かって面白かったです。お笑い芸人として現代によみがえるヒトラーという設定で読みやすい。映画化もされているようです。