僕は新聞が読めない__アフガニスタンとタリバン

僕は新聞が読めない__2
アフガニスタンタリバン


1.記事について
〈アフガン追加派遣命令 見えない出口戦略 米国防長官
 マティス米国防長官は8月31日、アフガニスタンに米兵の追加派遣を命じたことを記者団に明らかにした。トランプ政権は「新アフガン戦略」と銘打っているが、16年続く米軍の駐留と泥沼化するテロとの戦いに「出口戦略」は見えないままだ。
 マティス氏は今回の派遣規模について明らかにしなかったが、米メディアによると追加派遣方針の約3900人のうちの第1陣とみられる。マティス氏は「アフガン部隊がより効果的に戦うため」と説明。アフガン部隊への助言、テロ対策などに任務が限られるとし、オバマ前政権の対応と変わりがないとの考えを示した。
 米軍のアフガン駐留をめぐって、オバマ前大統領は完全撤退方針を示していた。トランプ大統領もかつて「金の無駄」などと批判、即時撤退を持論にしていた。しかし、反政府武装勢力タリバーンなどの伸長を抑えることができず、先月21日に米軍の撤退が「テロリストがはびこる空白を生む」として、無期限の駐留継続を表明していた。アフガンには現在約1万1千人の米兵が駐留しており、追加派遣で約1万5千人に増える見込みとなっている。
 2001年に始まったアフガンへの軍事介入は「米国史上最長の戦争」と言われる。千人単位の増派で不安定なアフガン情勢に劇的な変化をもたらすのは困難とみられ、新戦略でも米軍撤退の見通しは示されていない。(ワシントン=杉山正)〉
(朝日新聞 2017年9月1日 夕刊)

タリバーン台頭後のアフガニスタン
 1996年9月 タリバーンが首都カブールを制圧、政権樹立
 2001年9月 米同時多発テロ
     12月 米軍主導の空爆タリバーン政権崩壊、国際治安部隊が展開開始
 2005年頃  タリバーン自爆テロを戦術に採り入れ、攻勢を強める
  14年12月 国際治安部隊が任務を終え、大半が撤退。タリバーンが勢いづく
   15年1月 ISの支部が活動を始める
     10月 16年末までに撤退予定だった米軍が駐留延長し、部隊1万人弱が残ることに
   17年1月 トランプ米大統領が就任。その後、米軍増派の検討が始まる
      5月 カブール中心部で大規模な爆破テロがあり、150人以上が死亡
      8月 トランプ大統領が米国のアフガン新戦略を発表〉
時系列は、朝日新聞 2017年9月5日 朝刊より引用。


2.疑問点
いまだに混迷を極めるアフガニスタンアルカイダイスラム過激派、タリバーンパキスタンとの関係など新聞やニュースで多く目にかけるがそもそもなぜアフガニスタンがこのような状態になってしまっているのかについてはよく知らなかった。
そこで今回はアフガニスタン戦争の情報の整理を行うことにする。
この歴史は長く複雑なため二部構成とする。第一部はタリバン登場からアフガニスタンの制圧まで。第二部はオサマ・ビンラディンと9・11テロを中心に構成する。

 

3.知識の整理
今回は内容が新しいため世界史の分野から外れるため『詳説 政治・経済研究』(山川出版社)のほかに以下の文献、ウェブサイトを参考とした。
・『そうだったのか! 現代史パート2』、池上彰集英社
タリバン | 国際テロリズム要覧(Web版) | 公安調査庁
http://www.moj.go.jp/psia/ITH/organizations/SW_S-asia/taliban.html
アフガニスタン | 国連広報センターhttp://www.unic.or.jp/activities/peace_security/action_for_peace/asia_pacific/afghanistan/

ソ連アフガニスタン侵攻と第2次冷戦(1979年):
1978年にアフガニスタンに成立した社会主義政権を支えるために,ソビエト軍アフガニスタンへ侵攻した(完全撤収は1989年)ため,東西対立が再び表面化した。「強いアメリカ,悪の帝国ソ連」を主張するレーガン米大統領の登場で緊張はさらに高まり,ヨーロッパへの各増強で全面核戦争の危機やレーガン政権の戦略防衛構想(SDI)による軍拡路線が再び始まった。西側諸国による1980年のモスクワオリンピックボイコット,東側諸国による84年のロサンゼルスオリンピックボイコットは対立の象徴的事件であった。

アフガニスタン内戦:
1979年のソ連軍事介入後の内戦は,1996年にタリバンが全土をほぼ掌握し、実効支配したことにより一応終結した。「9・11」後、オサマ=ビン=ラディンをタリバン政権が匿っているとしてアメリカがタリバン政権を攻撃し,多くの人命が失われた。2001年12月にはアフガニスタン暫定行政機構が発足し,カルザイが議長に就任。その後,新憲法公布,大統領選挙が実施され(カルザイが大統領に就任),新政府が発足した。04年新憲法制定。05年には,国会下院議会選挙が行われ,32年ぶりに国会が開かれた。国内の一部にはまだ軍閥などが影響力を有しており、政情はいまだ不安定であるが政治・社会変革が進められている。
イラク戦争でアメリカがいなくなるとタリバン政権は息を吹き返した。

『詳説 政治・経済研究』(山川出版社)より、※以降は書き足した。

 


第二次世界大戦が終了し世の中には、資本主義体制のアメリカと西欧、社会主義体制のソ連と東欧が勢力争いを続けていました。直接的な武力衝突のないもので冷戦と呼ばれます。中東へ勢力を広げようとするソビエト連邦アフガニスタンに着目します。
最初は援助を積極的に行うだけでした。
ところが1973年7月にザヒル・シャー国王のいとこサルダム・ムハンマド・ダウド元首相が軍部と協力し無血クーデターを起こします。さらにダウドはソ連寄りの共産主義を掲げる人民民主党を弾圧。
怒ったソ連は手を回し人民民主党主導のクーデターを起こさせ権力を掌握します。
この時人民民主党内でハフィズラ・アミンが代表になりました。しかし、ソ連にとってアメリカに留学経験のあるアミンは信用なりませんそこで直接的に軍事介入しソ連寄りの政権を樹立することになりました。1979年12月24日のことです
結果アミンは死亡。傀儡政権にバブラク・カルマル元副首相をトップに据えました。
Point.ソ連の軍事介入からすべては始まった。

 

突然のソ連軍の侵攻に周辺国の若者たちが立ち上がります。
彼らはこのソ連の侵攻をイスラム教への侵害と位置づけ自らの戦闘行為を「聖戦」、そしてその聖戦に身を投じる者を「ムジャヒディン(聖戦士)」と呼びました。
ソ連の掲げる共産主義は宗教の存在を否定していたため起こった構図でした。
彼らをソ連と敵対するアメリカとイスラム教国家パキスタンサウジアラビアが支援します。苦戦を強いられたソ連は1989年2月15日アフガニスタンから撤退します。
同時にソ連が手を引くとアメリカも干渉しなくなっていきます。
後ろ盾を失ったアフガニスタン政府のムハンマド・ナジブラは3年間政権を維持しましたが最終的にラシード・ドスタム将軍率いるウズベク人主体の軍に裏切られ崩壊、後軍隊はアハマドシャー・マスード司令官率いるタジク人主体のゲリラと合流します。
Point.イスラム教徒にとって共産主義との戦いは宗教的な「聖戦」だった。

 

無政府状態アフガニスタンで内政は悪化の一途を辿ります。
軍閥が登場し派遣をめぐり内戦が頻発します。
まず起こったのがマスード・ドスタム連合軍とグルブディン・ヘクマティアル率いるゲリラ組織(パシュトゥン人)との戦いでした。アフガニスタンはパシュトゥン人の国家と言う自負のあるヘクマティアルにとって首都カブールがタジク人やウズベク人の手にあることは許せなかったようです。ヘクマティルはパキスタンパキスタン軍統合情報本部から支援を受けていました。なぜか、それはパキスタンもパシュトゥン人の国家だったからです。パキスタンは支援することでアフガニスタンでの存在感を大きくすることを狙っていました。そこで縁が深そうなヘクマティアルを応援したようです。
Point.政府が無くなったことで内政は以前よりも悪化した。

 

軍閥は好き放題、嗜虐の限りを尽くします。強盗、強姦も行われたそうです。
そこに「タリバン」が登場し軍閥の横暴から人々を無償で救い出します。この行為が人気を呼び民衆から支持を得ます。それを見ていたパキスタン政府とパキスタン軍統合情報本部もヘクマティアルを見限り代わりにタリバンの支援を開始します。
タリバン」は学生を意味するタリブの複数形です。元々はアフガニスタンを追われ難民としてパキスタンで暮らしていた若者達。彼らはイスラム教のマドラサ(神学校)の学生であったからこの名を名乗ります。そこでの教育は「コーラン」がすべてであり、その他の教養は教えてもらっていなかったようです。ここにイスラム原理主義の性格の素因があります。タリバンの主導者はムハンマド・オマルで1996年にはムハンマドの後継者を自称し大きな存在感を表していました。
タリバンはあっという間に国土を占領していきます、軍閥タリバンを倒すため「北部同盟」でまとまることになりました。1996年9月、マスード将軍率いるタジク人武装勢力を破って首都カブールを制圧し,「アフガニスタン・イスラム首長国」の樹立を宣言。さらに,北部のハザラ人,ウズベク人,タジク人などの少数民族による武装勢力を次々と破り,1998年8月に北部バルフ州マザリシャリフを制圧することで,アフガニスタンの大部分を支配するに至ります。
Point.タリバンパキスタンからやってきたアフガニスタン難民の若者だった。

 

1998年9月には,偶像崇拝の禁止を徹底すべく,世界遺産に登録されていた中央高地・バーミヤン州の仏教遺跡群の石像を一部破壊しました。2001年2月にはすべての仏像の破壊が行われました。これはイスラム教の「偶像崇拝」の禁止に基づくものでした。
他にもイスラム教を極端に解釈した行動が多く取られました、サッカースタジアムでの公開処刑、飲酒の戒めを守らせるために国内の酒瓶の破壊命令、ムハンマドがひげを生やしていたことから生えてない人物を逮捕、女性の教育の禁止、皮膚の露出の禁止、外出禁止などの極端な解釈に基づき驚くべき行動がとられました。
Point.タリバンイスラム教を独自解釈し実行した。

次回に続きます。