南方熊楠 異才の系譜

南方熊楠 異才の系譜

 

南方熊楠(みなかた くまぐす 1867~1941)、大正~昭和にかけ博物学民俗学、人類学、宗教学などの様々な分野の知識を渉猟しすべての学問の統一を図った人。

 

彼を一言でいえば狂気であった。

多くの研究者は熊楠のその成果や業績から彼の偉大さを見出そうとするが、そんなものは本質をついていない。結局私は彼が最後まで何の役にも立たない空論をもてあそんでいたにしろ、寒村でひっそり息を引き取っていたにせよ、その狂気との向き合い方に一考の価値があると考える。

彼の手紙には構成というものが存在しない、話の結末は二転三転し、脈絡もなく話題は変わり、突然話が立ち消えてしまうことさえあった。まるで彼は心の中の奔逸をそのまま紙に書き落としたようなそんな書き方をしている。

面白いことにそれは1つの手紙という形式すら超えるらしく、同じ日に2通も3通も熊楠から手紙が来ることもあったらしい。

論文でいえば、これこそ最も形式ばったもののはずなのに途中で話を変えてしまったり、猥談を挟んでしまうものだからそれを見た柳田国男が苦言を呈している。

ともかくも南方熊楠を見るにあたっては業績から熊楠の姿を類推するよりも、熊楠自身の本質を掴んだうえで見た方がよほど分かりやすいと思う。

南方熊楠柳田国男にあてた手紙の中で、自分が学問をするのはどうしようもない癇癪を鎮めるためだと説明している。実際彼は癇癪もちで幼少期から一度癇癪が生じると手が付けられなかったとか。大人になってもその性分はおさまらず大英博物館職員時代も同僚とのいさかいが原因で追い出されたり、気に喰わなかった地元の名士に殴り込みをかけたりと忙しい。

 

彼は自身の中にある狂気を膨大な知識によって飼いならそうとしていた。

この衝動はいつから来たのかは分からない。彼は幼少期の頃に『訓蒙図彙』や『和漢三才図会』などを読み込んでいた。この頃から狂気から逃れるために知識を集めていたのか、はたまた単に好奇心のままに知識を集めていたのかは定かではない。

南方熊楠辞』にこの『和漢三才図会』こそが自らの半生を構築しており、うれしいことも苦しいこともここから学んだとある。最も興味深いのはこの本で不治の病を得たとあることで、これが大学時代に出た癲癇を意味する解釈が一般的らしいが、私はこれを南方熊楠が初めて狂気を認識したと読んでも面白かろうと思う。

資料によれば満七歳で出会い、十歳で再会、十三歳で本格的に筆写し、十四歳で興味のある三分の一を写し終え。十六歳から十九歳の時、新たな版が出るにあたって読み返し、アメリカにも上巻を持っていき、下巻は二十二歳の頃に送ってもらったとあるからよほどお気に入りの本であったろう。年齢的にも多感の時期である。

いずれにせよこの幼い時に手にしたアドバンテージが後の熊楠像を形成したと思われる。

つまり狂気は説明可能で共存できるという発想を得たのではないか。

彼の発想は末広がりである、境界線はないに等しい。

彼は宇宙に存在するものごとは森羅万象であり限りなく広まっていくと考えていた、そこには人間と動物、雄と雌、生き物と死者などの垣根がなくなることを意味する。

彼は博物学などの小さな生き物を何千種も蒐集し記録をつけたことから、むしろ区別を細分化しようとしていたように見えるが、実際は逆で森羅万象という大局の解明こそが目的ではなかったか。実際彼は生物学や博物学では満足できず、宗教や民俗学などにまで足を伸ばさねばいけなかった。

最終的に彼が死ぬまで追い続けた森羅万象までの道筋が、今の細分化された学問によって解析されているだけなのであろう。彼の業績は生物学か博物学か、それとも宗教学かなんて話があるが、そこには熊楠自身が無関心であったように思われる。

混沌をそのまま、放胆にも目の前に据えて相手をしようというのだから尋常な行動ではどうにもならなかったろう。彼の奇行は以上のように考えれば必然であった。

 

ここで南方熊楠の狂気との向き合い方を考える上で重要だと思われる人物を挙げる。

それが息子の南方熊弥である。

彼は利発な少年ですくすくと問題なく育っていった、ところが大学受験のための船旅の最中突然気がふれてしまったという。急遽連れ帰された熊弥はその後、家族と共に暮らすも度々奇声を上げ暴れ出すため、泣く泣く外の病院へ出したそうである。結局熊弥は五十三歳でなくなるまで症状は良くならなかった。

一般的な解釈では、熊弥は南方熊楠の子どもであるという重圧と受験が重なり発狂したと言われている。もちろんそのような理由もあったに違いない。

しかし私はここに熊楠の天才たる所以でもあった狂気を、熊弥が引き継いでいたのではないかと思うのである。

上記であるように熊楠は大学時代に癲癇を患っており、なおかつ『和漢三才図会』を読みふけっている頃に不治の病を得たと述懐している。

そして彼の狂気との折り合いをつける方法は、圧倒的な知識量で狂気と対峙するというものであった。幼少期に常軌を逸していたような勉強によるアドバンテージが熊楠にはあった。しかし熊弥にはそれが無かった。ただただ言葉にできないような不安や恐怖、異常であるという不可解な現象に飲み込まれるだけではなかったのか。

ふと私は思うのである、もし熊弥に熊楠がその狂気との付き合い方をも教授していれば、彼は熊楠と同じように狂気と共存していけたのではないかと。

 

南方熊楠研究においてまだ熊弥は注目をされていないが、南方熊楠を狂気としてとらえなおす際に彼の存在は無視できないのではないか。