現代だから読みたい『老子』のすすめ

世の中の価値観に疑問を持っている方、

老子』を読んで見ませんか?

 

諸子百家の思想の中でひときわ異彩を放つのは『老子』ではないかと思っています。

大げさに言ってみましたが単に私が一番惹かれているだけかもしれません。

 

私は特に専門的な知識があるわけでもないのですが、現代にどのようにこの思想を生かせるのかについて少し意見を言わせてもらえればとこの文章を書くことにしました。

論語読みの論語知らず」と言う言葉がある通り、この『老子』を単なる古典、古臭い時代遅れの書物にするのはあまりにも惜しいと思うからです。

勢いで書いている部分もあるので極力注意を払うが間違いがあるかもしれません、その際は注意していただければ幸いです。

 

●そもそも『老子』とは何か

作者ですが、『史記』によれば老子の候補は3人おり、その中でも有力と言われるのが楚の苦県(こけん)の老耼(ろうたん)とされています。

彼は周の図書や公文書を保管する部署の官僚でしたが、周の衰えるのを見て出ていき、その道中にある関所で尹喜(いんき)に請われて記したのが『老子』。

孔子の教えを守る儒家への批判が多く見られ、世界の大本を「道」と仮に名付け、その思想に基づいて人間はどう生きるべきかを考えるような内容になっています。

 

●「道」とは何か?

老子』の思想の根本概念にあたるものが「道」です。

42章には「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負い陽を抱き、沖気以て和を為す。」とあります。

40章に「天下の物は有より生じ、有は無より生ず」というものがありますから、

 

①無=道 → ②有=一 → ③陰と陽=二 → ④陰と陽の混合=三 → ⑤万物

 

という図式になります。

無から有が出てくるのはなかなか妙な感じがしますよね。

無いはずなのにどうして有るという状態が発生するでしょうか。

これは宇宙空間における真空のように、あるべきものが無い状態ではなく、むしろすべてが混然一体となって区別がつかない状態に近いみたいです。まだ何物にもなれない何かが敷き詰まっていながら動かない状態です①。

有になって初めて存在となりますが、すべての可能性を含んだ状態であり、これも概念上の存在になると思います②。

陰と陽に至って初めて地上で認識できる形になります。これは対の概念で、「天と地」や「男と女」といった正反対の物が生じたことを示します③。

陰と陽はそれぞれ微妙なグラデーションで交じり合うことで④、世界にあらゆる万物を生み出していきます⑤。

と、こんな感じでしょうか。

「道」とはこの世界を作り出す根本になったものになります。

しかし、25章に天地を生み出した世界の母ともいうべきものに触れますが、「吾れ、其の名を知らず、之に字して道と曰い、強いて之が名を為して大と曰う。」とある通り、「何と呼べばいいか分からないから、字を道として、名を大とあえて読んでみ」ただけのようなので、道でなくても良かったのかもしれません。

 

●『老子』の魅力とは

さて基本的な概念は紹介しましたので、老子の人生の流儀を見ていきたいと思います。

全体を通して老子が訴えかけてくる言葉は「本質を見失うな」ということに尽きると思います。

老子が書かれた時代はまさに儒家、つまり孔子の弟子たちが政治を牛耳っていた時代です。彼らは『論語』にあるようにきっちりとした上下関係を設定し、礼儀をもってその構造を維持することに苦心していました。そういう意味では諸子百家政治学・組織学と言ってもいいかもしれません。

老子は言います。

「世の中の人々は、みな美しいものは美しいと思っているが、じつはそれは醜いものにほかならない。みな善いものは善いものと思っているが、じつはそれはよくないものにほかならない。」

皆がものに価値の上下をつけますが、それは不確かで変わりやすいものだというわけですね。ある時人気だったものが、いつの間にか見向きもされないなんてことはざらにあることです。

 

「そこで、有ると無いとは相手があってこそ生まれ、難しいと易しいとは相手があってこそ成り立ち、長いと短いとは相手があってこそ形となり、高いと低いとは相手があってこそ現われ、音階と旋律とは相手があってこそ調和し、前と後とは相手があってこそ並びあう。」

と続きます。あらゆる価値観は何かとの比較の上でしか成立しないということです。

 

「そういうわけで、聖人は無為の立場に身を置き、言葉によらない教化を行う。万物の自在にまかせて作為を加えず、万物を生育しても所有はせず、恩沢を施しても見返りは求めず、万物の活動を成就させても、その功績に安住はしない。そもそも、安住しないから、その功績はなくならない。」

以上2章でした。

 

聖人とは理想の人物くらいの意味です。

聖人はそういう表面的な価値観にとらわれず、優劣を述べずに感化する。

長かろうが短かろうが高かろうが低かろうが優劣などはつけず、

特徴を伸ばしたとしても自分のものとはせず、

相手のために行動しても見返りは求めず、

その特徴を最大限に引き出しても、

その功績にこだわらない。

こだわらないのだから後々なくなる心配もない。

とさらりと言ってしまいます。

 

世の中には様々な価値観があります。

しかしそのどれもが絶対的に正しいわけではなく、相対的なものに過ぎないのです。

良いとか悪いとか、そんなものは本当は存在しない。あくまで人間がこしらえたものなんですよね。

当時、儒家の整備した政治システムによって人間に上下の区別ができました。

そして上の人に対する礼儀がやかましく言われ、家族仲良くするようにとせっつかれ、国家のために忠臣になれと次々に価値観が作られ、人民ががんじがらめになっていく時代であったようです(18章)。

 

そんなに背伸びして無理に良い人ぶるのはやめよう。

道から生ずる本来の人間としての姿から離れて暮らすことはやめよう。

誰かの価値観に合わせ道を外れて無理をするのではなく、あなたの特徴を良いとか悪いとか言わずじっくり眺めて、伸ばせるところを伸ばす。

そういう無理のない生き方が最も理想の人間への近道だと老子が言っているのではないでしょうか。

 

この価値観が固定化し息苦しい現在だからこそ、

私は『老子』を読むことをおすすめしたいのです。

 

読んで下さりありがとうございました。

 

参考文献

老子』、蜂屋邦夫訳注、岩波書店

https://www.amazon.co.jp/老子-岩波文庫/dp/4003320514/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1542041572&sr=8-1&keywords=%E8%80%81%E5%AD%90