今後の方針についていくつか……

今後の方針についていくつか……

 

基本的に僕は好んで文章を誰かに向けて書いたり、誰かに向かって話したりするような情報発信をするような人間ではない。そもそも自分に自信がないのもあるし、情報は発信すれば誤解される。どうせ誤解されるのならば最初から黙っていた方がましなのではと言う風に考えたりもするからだ。しかし、その思想を貫徹しようとすると社会で生きるのが難しくなるということが実体験を踏まえてよく分かった。

私は基本物静かにしている。理由は人に迷惑をかけまいと思うのが一つ、誰かと話して誤解を与えることが怖いのが一つ。それで必要最低限の会話に終始し、誰も傷つけぬよう、誤解を与えぬようにしていこうと思っていた。「沈黙は金、雄弁は銀」という言葉もある。ところが、同僚に「君は人を馬鹿にして見下していると周りから思われている」と教えてもらいショックを受けたことがある。黙って作業をし会話もおざなり交友関係も狭く、積極的に人を避け、暇さえあれば本を読んでいる。「お前らとは違うのだ、近寄るな」という考えを持っていると誤解を生じさせていたというのだ。

何事も経験せねば分からないものだが、誤解されないように生きようとし努力をしてもどうしても誤解されるものらしい。というのも誤解の原因は私にだけあるのではなく、あくまで他者との関係の上に成り立っているだという、実にあたり前な答えが目の前に転がり出たのであった。

ニーチェなどは誤解を恐れるなと言い、自身の思想を舌鋒鋭く書いて世に広めた。彼の思想なんかは見方次第で「強い者が勝つべき」とか「善い生き方や道徳は弱者の作り上げた幻想だ」とか、「結局のところ人間は知性が本質ではない」とか人間の考えていた当時の常識に対して、そういう基本的な嘘であるとして土台を崩すことに終始していたが、結局『力への意志』は妹によって歪められニーチェはナチ思想に与していると考えられ、一方で「宗教や道徳が幻想だとして、我々はどのようにして個人、集団として生きていくべきなのか」といった意味合いでとって哲学を発展させた人たちもいた。結局、現象学実存主義精神分析にもその影響はあったと思う。

結局のところ、どんなに考えていても自分の考えがあっているかどうかは外に出してみないと分からないわけで、かと言って言わなければリスクも最小限なわけで、こう悶々とひたすら「社会にもっと出て自信を試すべき」という考えと「何としても傷つきたくない」というアンビヴァレントな発想が私の脳内で論争をしている。

そもそも文章技術も知識もあんまりないわけだし、間違ったこと言って人に迷惑かけたら大変だし、誰も見ないから安心……って言われても、それはそれで悲しくて心が折れそうだし……、だけどこのまま何もせず後悔したりしないのか…。

そして今や一つの結論に達した、「悩む時間が一番もったいない!」

もちろん思索や諦めずに粘り強く考えるというのは大事なことなのだが、この手の逡巡は結局どれだけ時間をかけても堂々巡りで埒が明かない。「やるならやる、やらないならやらない」で決めて行くしかない。やらないならきっぱりと諦め、後ろ髪をひかれる思いはすっぱりと断ち切るべきだし、やるのなら最初からうまく行くはずがないんだから失敗を恐れずに活発に動くべきである。

孔子も「吾嘗て終日食らわず、終夜寝ねず、以て思うも益なし。学ぶに如かざるなり」と言っているし、「学ぶ」という行為をより良い質にするにはインプットに加えアウトプットが必要になるだろう。これに関しては「知行合一」の考えを採用するべきだと思っている。「情報を覚えただけでは理解したとは言えない、使えて初めて理解したと言えるのだ」という王陽明の言葉は、あたまでっかちで動きの少ない私には耳に痛い箴言である。

 

今までもブログを書いてみたが、本当にこんな感じで良いのか?やっぱりやめた方が良いのではないかという躊躇いが脳裏をかすめて、尻切れトンボになる記事も多かった。その原因に臆病な気持ちがあるのは否めないだろう。

そういうことで私は積極的に行動することにした。そして大いに失敗することにした。なに、まさかブログで命を落とすことはあるまい。

誰も見ないならそれはそれで好き放題ができて面白い。しかし価値のある情報を発信できるのかはさっぱり自信がない。色々と試してみてフィードバックを繰り返すしかないだろう。こういう挑戦する、自由にやってみるという経験が私には足りないのだから。むしろ伸びしろがあると根拠のない自身を持ってみるのもいいかもしれない。

 

これをこれからの抱負として書き記しておく。