『儒教 怨念と復讐の宗教』を読んで思ったこと。

儒教 怨念と復讐の宗教』を読んで思ったこと。

 

孔子と言えばどういうイメージを抱くだろうか。

様々な解釈はあるが基本的には道徳心に篤い聖人と言ったイメージが強いのではないだろうか。井上靖の『孔子』や下村胡人の『論語物語』はどちらも名作だが、この前提はしっかりと残っていたように思われる。

さて学問には批判的な態度が必要であるとよく言われる物事を一面的にしか見れないと思ってもみないところで墓穴を掘ることもある。孔子聖人説に対して反旗を翻した本があって、なかなか面白かったので記録に残しておく。

 

タイトルからしてびっくりしてしまうのだが『儒教 怨念と復讐の宗教』である。著者の浅野裕一氏は、孔子を、政治的出世を目指す野心家の田舎者としてまず描き、最後まで政治家としての受命がなく失意の中で無くなった人物とした上で考察が進められる。

自分の才能を喧伝し売り込むも相手にされず、それどころか色々な人に馬鹿にされ、それでも諦めきれず放浪の旅を続け、最終的に故郷に帰って弟子の教育に努めるも、弟子ばかりが取り立てられ、遂に自分には声がかからない。

論語』の中に見え隠れする「人間孔子」の野心や不満、やっかみ、見栄を著者は紐解いていく。

 

相手が不徳の反逆者であろうと請われればこんなところで終われるか自分はこんなものじゃない腕の見せ所だと出て行こうとする。(該当箇所は記事の末尾に引用。番号で分けています①)

 

弟子が遅く帰って来て、理由を聞けば「政務でした」と答える。そんな弟子にいたわりではなく、つい嫉妬の気持ちが出て嫌味を言ってしまう。(②)

 

夏、殷、周の礼の専門家として招待された魯の大廟であれは何だ、これは何に使うのかと尋ね回ったため、「本当にあれが礼の専門家なのか」と訝しがられる。(③)

 

そして晩年になり、どうして自分が世間に認められないのかと嘆く(④)

 

そのどれもが聖人というよりも、同じ人間としての孔子の一面が鮮やかに現れてくる思いがした。『論語』という本の奥深さをより一層堪能するためにこの視座は非常に有効な気がする。とは言えこれだけを読んで「孔子はとるに足らず」というのも危険な気がしていて、むしろ「聖人孔子」のイメージをしっかりと持っている人が読んだ方が楽しめるのではないか。もしこれが初めての『論語』関連の本である場合は、『論語』そのものや小説でもいいので優れた師としての孔子を見て欲しい気持ちになる。一つの考え方に縛られず複数の角度から物事を見る方が気づくことも多いはず。

 

この本ではさらに残された弟子たちの何百年にもわたる仇討ちの経緯が語られる。

孔子がなくなり二つの情念が生じたとし、それが「孔子の偉大な徳を受け入れようとせず、落魄の死へと追いやった歴史的現実への復讐心」と「失意の中に世を去った孔子の魂を救済せんとする精神」であったとした上で後世の儒家の苦闘が幕を開ける。

 

孔子は聖人であると証明するために、あらゆる手段が講じられる。

孔子は無冠ながら社会の法則をつくったという点で天かに君臨する王であったと主張する『中庸』。聖人は王となるべきであり、当然孔子は新王朝の王になるはずだったが、上天はそれを良しとしなかった、今こそ孔子の理想を叶えるときと息巻く『孟子』。聖人としての証拠をそろえるため、孔子が書いたという触れ込みで作られる偽書の数々(『春秋』『孝経』緯書など)、政治と結託し孔子を聖王や皇帝にしようとする運動、流行りの仏教や道教のエッセンスを取り入れながら孔子の教えを聖王の教えより上に持っていこうとする朱子学……。

 

こうした絶え間のない努力によって以下のように歴史認識が変わった。

以前      上天―古代先王―経書―皇帝―官僚―万民

朱子学の時代  上天―孔子―四書―五経―君主(皇帝)―官僚―万民

 

古代先王(尭、瞬、禹、湯、文、武)の教えを五経(易経詩経書経礼記、春秋)によって学んで治世の規範を求める時代から、聖王としての孔子の教えを四書(論語孟子、大学、中庸)から学ぶことが優先されるようになった。孔子儒家の積年の願いは達成されたのだ。

とは言え提唱した当初は古の聖王を蔑ろにすることに反発も大きく、朱子自身囂々たる非難の最中死んでいる。

一回の大工の息子であったイエスダビデ王の子孫にして、救世主、王なのだと主張し、遂に認めさせ国教となったキリスト教に匹敵する成功だと筆者はいうのである。

 

儒教は孝悌や徳治の宗教だと思っていたが、この歴史を見る限り孔子教とでも言いたくなるようなエネルギーを感じる。人間の歴史や宗教はどう形成されていくかを見る上でも非常に興味深い経過に思える。また孔子はこの展開をもし知ったとして、「よくやった」と喜ぶのか「私の教えたことはそういうことじゃない」と嫌がるのか、などと色々な想像をしてしまう。

 

大きな歴史のうねりの中で儒教が、孔子の立場がどのような変遷を辿っていったのかはこの本で初めてしっかりと見たので興味深かった。とはいえすべての視点が「儒教ルサンチマン」の軸で捉えられており、別の見方もあると思うのでそれも確認したいところではある。

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。

 

 

本内容で扱った『論語』の内容に関して、

本文部分は読み仮名を()に入れた形で加えた。

解説は参考文献をもとに自分の考えも踏まえた上で作成した。

 

①佛肸(ふっきつ)招く。子は往かんと欲す。子路曰く、昔者(むかし)由は諸を(これ)夫子(ふうし)に聞けり。曰く、親(みずか)ら其の身に不善を成す者は、君子は入らずと。佛肸は中牟(ちゅうぼう)を以て畔(そむ)けり。子の往かんとするは之れ如何。子曰く、然れども是の言有るなり。曰く、堅しと曰わざらんや、磨けども磷(すりへ)らず。白しと曰わざらんや、涅(どろぬ)れども緇(くろ)まず。吾豈に匏瓜(ほうか)ならんや。焉(いずく)んぞ能く繋がれて食らわざらん。(『論語』陽貨篇)

 

中原の大国・晋に反乱を起こした佛肸の招きに応じようとする孔子とそれを留める弟子の子路孔子は行く気があるが、子路は「先生に不善を働くような者のところには君子は出入りしないと教えていただきました」と引き留める。孔子は「私は志操堅固で、清廉潔白だから、悪には染まらない。苦瓜じゃあるまいし、いつまでもつるにぶら下がったままで、誰にも食われないなんて、もう御免だよ」と答える。

 

②冉子(ぜんし)朝より退く。子曰く、何ぞ晏(おそ)きや。対えて曰く、政有り。子曰く、其れ事ならん。如(も)し政有らば、吾を以(もち)いずと雖(いえど)も、吾其れ与(あずか)りて之を聞かん。(『論語子路篇)

 

弟子のひとりである冉子が遅く帰ってきた際には、孔子は「どうして遅くなったのか」と尋ね、冉子は「政務で遅くなりました。」と答えると「政務と言うがそれは嘘で、お前がしていたのは、どうせただの事務仕事に決まっとる。本当に重要な政務があったのなら、いくら朝廷がわしを登用しないからといっても、必ず一言ぐらいは相談があるはずだからな。わしは何も聞いとらんぞ。」と返している。

 

③子大廟に入りて、事ごとに問う。或るひと曰く、孰(たれ)か鄹人(すうひと)の子を礼を知ると謂うや。大廟に入りて事ごとに問う。子之を聞きて曰く、是礼なり。(『論語』八佾篇)

 

国祖・周公旦を祭る魯の大廟に礼の専門家として入った孔子は、いちいち「あれは何か」「これはどう使うのか」と聞きまわっている。「誰があの田舎者を専門家と呼んだのか」と言われると、孔子は「知ってても知らんふりで訊ねるのがあなた、礼儀というもんですよ」と答えた。本当に知らなかったため、苦しい言い訳をしたようにも見える。

 

④子曰く、道行われず。桴に乗りて海に浮かばん。我に従う者は、其れ由か。(『論語』公冶長篇)

 

夢も叶わず自暴自棄になる孔子。他にももう何も言わないと拗ねている様子(『論語』陽貨篇)や自らの衰えに嘆息している姿(『論語』述而篇)も記録されており、人間味あふれる姿を垣間見ることができる。

 

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