<ゼノンのパラドックス>で考える、完璧主義者はなぜ何もできなくなるか?

<ゼノンのパラドックス>で考える、完璧主義者はなぜ何もできなくなるか?

 

完璧主義。

すべてのことにおいて責任を感じ最善を尽くそうというその心構え。プロフェッショナルな仕事をこなすのであれば当然必要になるはずである。

しかしこの考え方は一歩使い方を間違えると、まったく身動きが取れないほどに足をとらえて離さないような一面がある。

 

あるマラソン選手が言っていた、どうしても辛くなったときは目の前の電柱を目標にして走り、それを突破出来たら次の電柱を目指して走る、その繰り返しをしているうちにいつのまにか自分でも驚くほど進んでいるものだと。

目標を小さく設定し、小さな達成感を積み重ねていく。

大きな目標はそれらをこなすうちに自然と可能な領域にまで近づいている。

私もこの考え方には納得がいく、ゴールの見えない目標はただただ苦しく、いつになれば終わるのかという絶望感が常につきまとうので必要以上にエネルギーを使ってしまう。

 

しかし完璧主義者の陥る落とし穴はまさにこの小さな目標にある。

いきなり大きな目標を掲げて叶わぬは人の道理である。たいして珍しいことではない。

しかし小さな目標を達成できない場合もある。

何をしたかと言えば小さな目標を完全に達成しようとしたときにこの問題が生じる。

 

ゼノンが唱えたアキレスと亀パラドックスをご存じだろうか?

俊足で有名なアキレスは鈍足な亀に一生追い付けないという一見すると不思議な話である。

なぜそのような話になるか。

それはアキレスが亀に追いつくためには亀の居る位置にたどり着く必要がある。しかし亀はゆっくりながら前進している。よってアキレスは亀の居た場所よりもわずかに後ろに来てしまう。以降この繰り返しが発生しアキレスは常に亀のわずか後ろに位置せざるを得ないという論理である。

これはアキレスが何としても亀に追いつくという行為を完璧にこなそうとするが故の失敗である。ようは亀を追い抜いてしまえばその前に追いついた瞬間があるわけである。それで満足すればいいのにも関わらず、このアキレスは完全な追いつくことを達成したいがゆえに遂に叶わない。

 

完璧主義者はまさにこのアキレスのようなもので、小さな目標に完全さを求めすぎるのである。先のマラソンを例に挙げればそれぞれの電柱の超え方にまたこだわりがあり、一本を超えるのにあれこれと思慮を巡らし、時には失敗すらするかもしれない。

大きな目標のための小さな目標ということを忘れてはいけないのである。

 

もしも小さな目標に囲まれ身動きが取れなくなったときは、そもそもの大きな目標を思い出さなくてはいけないだろう。

考えてみて大きな目標が無いことが分かれば、今度は一度立ち止まり大きな目標から立て直し方向転換をする方が良いかもしれない。

 

完璧主義者の強みは最後までこだわり通すことだが、それは最後の大きな目標に活かされなくてはいけない。

小さな目標に関しては失敗してもむしろそれを糧にして、大きな目標を達成するのだ!くらいの意気で進んでいくと完璧主義者は良い気がする。失敗を先に経験しておくことで最終目標での失敗する確率はぐんと下がる。

 

大きな目標に対する完璧主義者であれば、小さな目標は経験を積むための指標であり、この通過点で毎回完全さを発揮しようとする必要はないのである。

 

完璧主義者こそ大風呂敷を広げなくてはならない。

完璧主義者にはそれを最後はたたんでしまうほどのこだわりと集中力という才能があるのだからなおさらである。

 

アキレスは亀を見たら、追いつくのではなく追い越すことを大きな目標にしなくてはいけないのだ。いつの間にか追いついていたらしい、これくらいの図太さで丁度いい。

 

ここまで読んでいただきたありがとうございました。