庭の隅からお送りいたします。④鵜について

庭の隅からお送りいたします。

4.鵜について

 

庭のすぐ横の川から水面を叩きつけるような音が数回鳴ったと思うと何かを水で洗うような大きな音が続いた。よくコイが跳ねるときに音が鳴るがそういったものとは少し違う様で連続的に緊迫感のある音が続いていたので気になって見てみるとカワウが大きなコイを追い回しているところであった。一筋縄ではいかないらしくカワウは逃げようとするコイをくちばしで掴んでは離し、隙を見てはつつき、相手の体力が尽きるのを待っているようだ。鯉も必死に尾を水面に叩きつけ水しぶきを上げ暴れまわっている。

それにしても大きい魚を狙ったなぁと半ば感心していた。コイの全長は黒鵜の首と同じくらいの長さで、黒幅に関しては鵜の首の太さに対しておよそ3倍もありそうだ。さすがに欲張りすぎたのではないだろうかと思う。

しばらくカワウとコイのつばぜり合いが続いたが、段々コイの分が悪くなったようで水面はコイの血で色づき始めた。跳ねる力も少し弱くなった。しかしこの大物をカワウは一体どうやって食べるのだろうと息を凝らして見守っているとその瞬間は突然やってきた。

カワウが水面に顔を突っ込んだと思うと、嘴が顔をはるかに超えるくらい大きく開いて鯉の頭をすっぽりと覆うと、そのまま顔を垂直に突き出した。上からコイの尻尾、胴体、カワウの顔、カワウの身体と一体化した姿は新鮮な光景だった。下手に動くとバランスを崩し大物を逃がすためか黒鵜はじっと上を向いたままじっとしている。魚が逃げようと尻尾を振るとかえって重力がかかって黒鵜の首の奥深くに入っていくため動く必要がないらしい。口の広がり方もすごかったが首の広がり方もすごく魚の大きさにまで余裕で広がってしまった。仕上げに首を少し動かしすべて喉に押し込むと顔を前に向けるとそのままゆっくりと飛んで行った。後には静かな水面だけが残り、僕は茫然としばらくそこを見つめていた。

 

それにしても鵜はどうしてあんなに大きな魚を飲み込むことができるのだろうか、実は鵜はペリカンに近い生き物なのだ。以前はペリカン目であったほど近い種である(現在は分類が細かくなりカツオドリ目に入っている。ペリカン目には現在ペリカン科、トキ科、サギ科、シュモクドリ科、ハシビロコウ科がいる。一方のカツオドリ目にはカツオドリ科、グンカンドリ科、ウ科、ヘビウ科が分類されている)。ペリカンと言えば嘴の下が大きく膨らんだイメージがある人も多いのではないだろうか。実はあの部分は喉袋という器官で何も入っていないときは縮んでおり非常にスマートな顔つきを見せてくれる。鵜にもこの喉袋があるため大きな魚を無理なく収納することができる。そこから腺胃で消化酵素を加え、筋胃であらかじめ飲み込んでいた砂や小石と一緒に魚を混ぜ込み分解を早める。筋胃はその名のとおり厚い筋肉に覆われており、胃自体を動かして咀嚼しているのだ。歯のない鳥類にとって食べたものを細かくするのはここにかかっている。とはいえ、いくら頑張っても骨やうろこなど消化しきれないものは粘性の高い液でまとめてペリットにして吐き出してしまう。

 

またびっくりさせると飲み込んだ魚を丸ごと吐いて逃げていく習性があり、これを応用した漁が鵜飼である。現存している鵜飼で使用されるのはカワウではなくウミウで、しかも野生のウミウを使用しているらしい。毎年やって来たウミウを捕まえ漁に利用しているとのこと。

この鵜飼、ルーツはかなり古いものらしく『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)にも鵜飼と思われる描写があり、群馬県にある保渡田八幡塚古墳からは鵜飼をモチーフにした埴輪まで発掘されていて、確かに首に縄をつけた鳥が魚を丸のみにしている様子がかたどられている(※1)。古墳のつくられた時期を考えれば5世紀後半から6世紀前半には既に鵜飼が存在していたと考えられる。

 

人の生活圏に密着し、埴輪や書籍と言った証拠によって文化的に存在していることが証明されている動物も珍しいのではないだろうか。古の時代から連綿と続いている文化は今も姿や形を変えて元の形を残していないかもしれないが、少なくとも鵜飼に関しては原体験に近いものが残っているようだ。そういう古代の生活に思いを馳せて見ると鵜飼も一層意味深いものになるのではないだろうか、いつか見てみたいものである。

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。

以上庭からお送りしました。

 

※1 岐阜長良川鵜飼の公式HP(保渡田八幡塚古墳出土の鵜飼埴輪の写真が掲載されている。)

https://www.ukai-gifucity.jp/Ukai/history.html