眠れない夜は哲学書を読もう①  ニーチェの「反キリスト者」

眠れない夜は哲学書を読もう①  ニーチェの「反キリスト者

 

「——これで私は結論に達したので、私の判決をくだす。私はキリスト教に有罪と判決する。私はキリスト教会に対して、かつて告訴人が口にしたすべての告訴のうちで最も怖るべき告訴を発する。キリスト教は私にとっては考えうるすべての腐敗のうちで最もはなはだしいものである。それは、かろうじて可能な最後の腐敗への意志をもっていた。キリスト教会はその頽廃に何ものをも触れしめずにはおかなかった。それは、あらゆる価値から非価値を、あらゆる真理から虚言を、あらゆる正直さから魂の卑劣さをでっちあげた。」

フリードリッヒ・ニーチェ 「反キリスト者」より

 

 

ニーチェキリスト教を「これまで人類の最大の不幸であった」と徹底的に非難します。

ではなぜニーチェキリスト教に対して有罪判決を出すに至ったのか?彼の思考を追ってみましょう。

そもそもニーチェは人間のあるべき姿をどのように捉えていたか、この部分から確認していきたいと思います。

まずニーチェが重要な言葉の定義を二章で出しているのでここを見てみましょう。

「善とは何か? ——権力の感情を、権力への意志を、権力自身を人間においてたかめるすべてのもの」

「劣悪とは何か? ——弱さから由来するすべてのもの」

「幸福とは何か? ——権力が生長するということの、抵抗が超克されるということの感情。満足ではなくて、より以上の権力。総じて平和ではなくて、戦い。徳ではなくて、有能性(ルネサンス式の徳、virtù、道徳に拘束されない徳)

そして、「なんらかの背徳にもまして有害なものは何か? ——すべての出来そこないや弱者どもへの同情を実行すること」とした上でキリスト教を明示します。

 

ニーチェによれば「弱者や出来そこないどもは徹底的に没落すべきである」とし、これを「人間愛の第一命題」とまで言い切っています。

一方例外的人間(後述)「義務」として「凡庸な者どもを、おのれやおのれと同等の者にもまして思いやりある指で扱う」ことをあげています。

ニーチェの世界観では実力に基づいて三つの分類がなされます。一番が優れて精神的な者たち(例外的人間)、続いて優れて筋肉や基質の強い者たち(第二位の者)、最後にいずれにおいても際立つことのない者たち(凡庸な者)になります。上に立つ人物ほど特権が多いですが、代わりに果たすべき責任も軽くはないというのがニーチェの発想です。一番目の人たちは「世界は完全である」ことが分かる人たちで善や美を決定し、二番目の人たちはそれらを実現します、そして三番目の人たちは「手工業、商業、農業、科学、芸術の最大部分」といった生活の基盤をつくることを担います。能力ごとに果たすべき役割が異なる、その上でお互いを尊重すべきというのがニーチェの考えです。端的に言えばニーチェ実力主義の社会を構想していたことになります。

 

それではキリスト教が何を行ってきたのかこの部分のニーチェの考えを次に追ってみましょう。

ニーチェキリスト教が「同情の宗教」であると言います。そして「同情は、生命感情のエネルギーを高める強壮な欲情の反対物」とします。人は同情することによって力を失い、同時に苦しみが感染性を持つようになる。さらに発展を導く「淘汰の法則」に反し「同情が生のうちで手離さずにいるすべての種類の出来そこないを充満せしめる」と批判を加えます。

ここでの淘汰の法則は、先ほどの人間の区分に該当すると思われます。凡庸なものが同情を集めて、能力のないままに高度な技術と相応の責任を求められる特権階級に集まればどうなるか?というわけです。さらに彼らは平等を求め階級自体を否定していきます。

結局、同情が広がり、同情こそが「徳」ということになり、その理論を維持するため都合のいい「彼岸」(つまりあの世のことです)や「神」が捏造され、人間は強くありたいというもっともな感情を否定されて本来の生きる気力を失ってしまった……。ニーチェは自身の考える人間のあるべき姿が否定され、病的で生きる気力に乏しい人間があふれる現状を目の当たりにし、キリスト教を告発するに至ったのです。

 

ニーチェはそもそも、「おのれを信じる民族」がもつ神は「有益でも有害でもありえなければならず、友でも敵でもありえなければならない」もので「おのれを上位に保たしめてくれる諸条件、おのれの諸徳」の感謝の対象としての存在であったとします。キリスト教に見える「善のみの神」は自然に反した歪な存在なのです。

「神々は二者選一以外にはない、すなわち、神々は権力への意志である——そのかぎりでは神々は民族の神々となる・・・あるいは権力への無力である——そのときには神々は必然的に善となる・・・」

人間の都合のいいように「神」は手を加えられていく。最終的に神は無になってしまいます。その様子はこう表現されています。「彼らはついに神をつむぎつつんだので、ついには神が、彼らの運動によって催眠術をかけられ、蜘蛛にすら、形而上学者にすらなった。そしてこんどは神がふたたびその体内から世界をつむぎだし——スピノザの相の下で sub specie Spinozae ——、そこでこんどは神がおのれをますます稀薄な青ざめたものへと変形せしめ、「理想」となり、「純粋の精神」となり、絶対者となり、「物自体」となった・・・神の頽落、すなわち、神は「物自体」となったのである・・・」

「善のみの神」は自身が不完全な故に外に「悪魔」を作り出します。そしてその敵意の対象となるのが「高貴なるもの」つまり権力への意志を持った存在に関わる一切のものでした。最終的に、精神の矜持、気力、自由、放縦、官能が憎悪され迫害されていきました。

 

この権力への意志をもった人たちを否定した元々の考えは「ユダヤ教」に遡ることができるとニーチェは言います。最初ユダヤ民族の神も「善悪を兼ね備えた」民族の神でしたが、国内の無政府状態アッシリア人の侵入が加わり国が壊され、ユダヤ人の神はその役目がはたせなくなりました。本来であればここでユダヤ教は終わりになるはずだったのですが、ユダヤ人は神に手を加え不完全な状態で存続させたのです。

今まではユダヤ人が行動の指針でしたが、それ以降は行動の善悪は彼岸の神が決定します。神の考えに沿っていれば恩寵が、沿っていないと罰が下ります。そしてその概念を僧侶が「神の言っている善悪はこうだ」とこの発想を悪用し人間から富を集めます。

そして時代は下りユダヤ教の中からイエスが登場します。しかし彼とその使徒のやったことは我欲に執着する僧侶や教会といった権力をもった構造を壊すことしか念頭になかったとニーチェは説明をしています。結局イエスユダヤ教の行った神の去勢をさらに一段階強めただけであったのです。イエスの最後は罪なき人の罪を背負っての死ではなく、政治犯としての死刑の結果でした。

ニーチェは地球上にキリスト者は未だに一人しかいなかったと言います。それはイエスキリストその人です。彼は地球上に現れた最初で最後のキリスト者であり、それ以降はねじ曲がった神による自然の否定といった唾棄すべき「キリスト教」が始まります。

エスは権力や格差といったものに憎悪を抱かずただひたすら沈黙し苦痛に耐えるという行為でその存在感を示しました。そこにニーチェの毛嫌いする「キリスト教」のおもむきはありません。人間の生きる力を奪ったあの「キリスト教」はイエスの死後突然世の中に現れたというのです。

「本来イエスがその死でねがったのは、おのれの教えの最も強力な証拠を、証明を公然とあたえるということ以外の何ものでもありえなかった・・・しかし彼の使徒たちには、この死を容赦することなど思いもおよばなかった、——そうすれば、最高の意味で福音的でもあったろうに。ましてや、心の柔和な好ましい平安のうちでイエスと同じ死にわが身を提供することなど思いもおよばなかった・・・まさしくこのうえなく非福音的な感情が、復讐が、ふたたび優勢となった。事態がこうした死でけりがつくことなどありうべからざることであった。「報復」が「審判」が必要となったのである。」

そして使徒はイエスを法外な仕方で持ちあげ、おのれからたちから引き離したのですが、これはユダヤ教徒が自分達の神にしたことの再現だったとニーチェは見ました。

挙句には一人の人間として生を全うしたイエスに復活という物語をそなえ、永遠の命という「最も軽蔑すべき約束」をパウロは周到に用意したのです。

かくして死後の世界が中心となり、人々は平等であることが求められる社会ができあがりました。問題は現実で起きているにも関わらず、あの世や神や精神ばかりに注目することを強要し、真に強い人間が悪者とされ断罪されていく。本来なら人の上に立てるはずもない僧侶は自らの地位を維持するため「律法」、「神の意志」、「聖なる書物」、「霊感」などの用語によって人を脅かす。

 

この考えで得をしたの誰であろうか?ニーチェはこう言いますキリスト教は、高所をもっているものに対するすべての地をはうものの蜂起である」と、彼にとってキリスト教の教えは持たざる者の憎悪から出た復讐心が顕在化したものでした。自分ができないのだからあなた方も当然しないでいなければならないというルサンチマンがこの思想の根にあると考えるのです。

それでは一体どのような理由でキリスト教はこれほどの嘘を作り出したのか?

「あるのは劣悪な目的のみ、すなわち、生の害毒、誹謗、否定、肉体の軽蔑、罪という概念による人間の価値低下と自己汚辱のみ」と豪語します。

人間のあるべき姿とは何か?ここを掴んでおくことで何故ニーチェキリスト教を酷評したのかが見えてきます。

 

ニーチェキリスト教を告訴し有罪判決をくだした理由がお分かりになったでしょうか?解説が不慣れなため魅力を充分伝えられたかどうか不安な部分があります。また引用文の傍点が消えてしまいましたので対策を考えたいと思います。

今回はちくま学芸文庫版のニーチェ全集の14巻である『偶像の黄昏 反キリスト者』を使用しました。ぜひご自身の眼でご覧になってください。新しい発見があるのではないかと思います。

 

気になるのはニーチェの言う「反キリスト者」とはいったい誰を指しているのでしょうね?キリストを捻じ曲げたパウロ以下のキリスト教信者なのか?これからキリスト教を告発する人々なのか?それともこの虚偽を見ないようにしてキリスト教も権力への意思に基づく社会をも裏切っている人たちか?はたまたニーチェ自身か?気になるところです。

 我々は果たして高貴な生き方をしているでしょうか?それとも今も幻想に浸っているのか?ニーチェなら何ということでしょうか。

最後も「反キリスト者」の言葉で締めくくりましょう。

 

「私たちは学びなおしてしまった。私たちはあらゆる点でいっそう謙譲となっている。私たちはもはや人間を、「精神」から、「神聖」から導出しはしない、私たちは人間を動物のうちに置きもどした。私たちは人間を最も強い動物とみなすが、それは人間が最も狡猾な動物であるからである。すなわち、その一つの帰結が人間の精神性なのである。私たちは他方、あたかも人間は動物進化の偉大な意図ででもあるかのごとく思うところの、ここでもまたふたたび頭をもたげたがる虚栄心をいだかないように警戒する。人間は断じて創造の王冠ではない、いずれの生物とて、人間とならんで、完全性の等しい段階のうえにいるのである・・・そしてこう主張してすら、私たちの主張はなお過大にすぎる。すなわち、人間は、相対的にみれば、最も出来そこないの動物、最も病弱な、その本能から最も危険に踏みはずしている動物——もちろん、それにもかかわらず、最も興味ある動物でもある!」

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。