眠れない夜は哲学書を読もう②『老年について』キケロー

眠れない夜は哲学書を読もう②『老年について』キケロ

 

使用したテキスト

『老年について 友情について』、キケロ―、大西英文訳、講談社

この中から『老年について』をとりあげました。

 

作者について

[前106~前43]古代ローマ随一の雄弁家・政治家。執政官のとき、カティリナの陰謀を事前に発見、元老院から「祖国の父」の称号を受けた。共和主義者でカエサルに対立、その死後はアントニウスに反対して殺された。著作に「友情論」「老年論」がある。

                          

登場人物

カトー・ケンソリウス・マルクス・ポルキウス(大カトー)

195年の執政官、184年の監察官。ローマの伝統を重んじる政治家、文人。厳格な風紀取り締まりで名高く、「ケンソリウス(監察官)」の異名を得た。

 

スキピオー・アエミリアヌス・アフリカヌス・ミノル、プブリウス・コルネリウス(小スキピオー)

大スキピオーの義理の孫。大カトーの長男の義理の兄弟。のちのカルタゴを殲滅する傑出した武人かつギリシアの文芸を愛好した進歩的知識人。

 

ラエリウス、ガイウス

小スキピオーの無二の親友。「賢者」の異名をもつ進歩的知識人。

 

あらすじ

小スキピオーとラエリウスは、執政官や監察官の要職をこなし老年をすごす大カトーが、老いに関して全く恐れず落ち着いていることの極意を尋ねに来た。彼らに大カトーは一体何を語りかけるのか?

 

内容

 大カトーは老年が惨めなものだと思われる理由として

①「諸々の活動から身を引かせ、帰臥を余儀なくさせること」

②「肉体を衰えさせること」

③「およそすべての快楽を奪い去ること」

④「死が間近であること」

を列挙しそれぞれ吟味を加えていきます……。

①活動性の低下について

大カトーは「大業は、肉体の力や速さ、敏捷さによってではなく、賢慮や権威、智略によって成し遂げられるものであり、老年は通例、それらを奪われるどころか、増しさえするものなのだ」とし、肉体の衰えに代わる能力があることを示唆します。

「無謀は華やぐ青年の、智慮は春秋を重ねる老年の特性なのである」

その上で、記憶力は鍛錬することによって衰えを防げること強調します。

カエキリウスの言葉「誓って、老年よ、お前がやって来るとき、難儀を他に何一つ携えてこぬとも、これだけでたくさんだ。長生きすることで、目にしたくないことを、あれやこれや目にせねばならぬという、この一事で」に対し、大カトーは「しかし、またたぶん目にしたいことも、あれこれと目にできる」こと、そして「目にしたくないことなら、若い頃だって、しばしば出くわす」と反論しています。

さらにカエキリウスは老人としての自分が、他人に嫌がられる存在であることが情けないとするのに、大カトーは、老人はむしろ「喜ばれる存在」であると言います。

「賢明な人は、老人になっても、優れた資質をそなえた若者に喜びを覚えるものだし、また、若者に敬われ、愛される老年は〔重荷として〕軽いものになるように、若者にしても、老人の教訓に喜びを見出し、それを導きとして諸々の徳の追究へと誘われるものなのだ。」

老年は「活発的で、常に何かを行いもし、何かに励みもしている」のです。

 

②老年の体力の衰えについて

大カトーは自らの弁論家としての経験を踏まえ、確かに年老いては若かった頃のように力強い弁論はできなくなったことを認めています。その一方で年齢にふさわしい抑制された語り口や若者を教育・指導する力を発揮できると言います。

老年の体力の衰えは、年齢のせいというよりも若い頃の悪癖や習慣のせいであることを主張、そこを踏まえれば鍛錬と節制によってある程度は維持が可能という努力目標が生じるわけです。

そこには体力はもちろん、特に注意すべきは「心や精神」であると言います。

「心や精神は、いわばランプのように油を継ぎ足してやらなければ、老化とともに消滅してしまうものだからね」

こういったことを踏まえ日々鍛錬する若者は、肉体こそ年齢に従って老いるだろうが、その精神はいつまでも若々しくあれると自信を振り返ります。

 

③およその快楽を失うこと

老いをまずは受け入れることに関して「少年期のひ弱さもそうだし、青年期の峻烈さも、既に安定している中年期の重厚さも、老年期の円熟にしてもそうだが、それぞれの時期に収穫しなければならない自然の恵みと言うべきものがある」としました。

そしてその時期の最善を尽くすことを「力を適切に用い、各人がもてるかぎりの力で努力しさえすればいいのだ。そうすれば過度の憧憬にとらわれることもないのだ」と表現しています。

 

また興味深いのが大カトーの青年時代における快楽の危険性を指摘します。

大カトーによれば、すべての罪過や悪行を生み出す理由として快楽への度を越えた欲望であるというわけです。そう考えれば老いるにしたがって欲しいものや、したいことが少なくなるのは、むしろありがたいことになります。

「ああ、何と素晴らしい春秋の賜物であろう、老年が青年期の不徳の最たるものをわれわれから取り去ってくれるというのならね。」

「仮にもわれわれが理性や叡智で快楽を拒絶できないとして、すべきでなきことを喜びとしないようにしてくれる老年には感謝しなければならないのだ」

「快楽が支配するところ、克己の働く余地はなく、快楽の王権に隷属するところ、徳は存在しえないからである」

「快楽ほど唾棄すべきものはなく、快楽ほど危険な悪疫はないのだ」

 

老人にとって、快楽への欲望から解き放たれ平穏な世界を生きることは好ましいことなのです。

「性欲や野心、争いや確執、亦あらゆる欲望のいわば苦役を果たし終えて、精神がみずからに立ち返り、よく言われる言葉を借りれば、みずからとともに生きるのはどれほど大きな価値のあることであろう。」

 

  • 幸福な営みとしての農業

大カトーは農業を「どれほど高齢であろうと師匠のない営み」であり「賢者の生にきわめて近似したもの」と考えます。理由として全人類の健康に資する務めを果たしている、喜びが得られる、人の生活の糧に関わる、神々の礼拝に関わることなどをあげています。

 

  • 老人としての理想像

賞賛すべき老人として「若い頃の礎の上に築かれた老年」を、哀れな老年として「言葉で繕い、弁解しなければならない老年」をあげます。

そして前者の名誉の証は何気ない日常の関係性にこそ現われるとし、「浅井殺されること」、「探し求められること」、「道を譲られること」、「立ち上がって迎え入れられること」、「誰かに先導されること」、「相談されること」などをあげています。

また老人の気難しさや偏屈さ、欲深さ、怒りっぽさなどの特性は「性格の欠陥であって、老年の欠陥ではない」と主張し、若い頃からのよい習慣の積み重ねや学校教育などで培った徳がそれらの特性を起こらないようにするであろうと言います。

「必ずしもすべての葡萄酒が古くなれば酸っぱくなるわけではないように、人の性質も、古くなったからといって、すべてが劣化するわけではないのだからね」

 

④死ぬとどうなるかについての考察

大カトーは死そのものについても考えを進めていきます。

可能性として①魂をすっかり消滅させるもの、②魂を永遠のものとなる、どこかへ連れていってくれるもの、というふうに分類した。そして①ならば、無になるのだから恐れる必要性はないと考える。また②ならばむしろ消滅を免れるのだから、むしろ望ましいと考えた。つまりどちらに転んでも懼れる必要などないわけです。

 

  • 老人の死と青年の死の違い

老人には先がない、代わりに今まで生きてきたという事実がある。

若者には先がある。代わりに生きてきたという事実はない。

そして大カトーは若者がこの先も無事に老いるまで生きるのかは保証できないとします。そう考えると無事に長生きした老人は、そのことだけでも幸運であったことが証明され

ているのです。

しかしそうはいっても自然なのは老いるまで長生きすること。死ぬべき時に死ぬというのが大カトーにとってはとても大事なことのようです。

老人の死は焚火が自然に燃え尽きる、または熟したりんごが自然に下へ落ちていくイメージであるのに対し、青年の死は焚火に突然水がかけられた、または青いりんごが無理やり引きちぎられたイメージと表現しています。

「徳と正しい行為によって達成されたものだけが残るのだ。まことに、時も日も月も年も去りゆくもの。過ぎ去ったものは決して戻らず、未来のことは知るべくもない。各人に与えられている正の時間に満足しなければならないのである」

「生の最良の終焉の形は、精神が健全で、感覚が確かなうちに、自然そのものが、みずから組み立てた、その同じ創造物を解体する場合である。それゆえ、束の間の余生を貪欲に追い求めてはならず、また故なく捨ててはならない。」

 

  • 賢者は死の前に何をすべきなのか

大カトーは死を前にして狼狽えずに、平常心を保っているためには死後についてのことを熟考していなくてはならないと言います。畢竟、それは魂がどうなるかについてです。彼によれば人間という存在は、不死なる神によって魂を肉体に吹き込まれた存在であり、その使命は地を見守り、天を想い、生の節度と恒常心によって秩序を維持することであったろうとします

そういう経緯であるならば魂は肉体が滅びれば元あるべき場所に戻るのであり、決して消滅するものではないと大カトーは言います。しかし、消滅するという考えにも一理あるとした上で、ここから先は思念の問題なのだろう、消滅することが真実であろうと、私は魂の不滅性を信じたいと、ここは潔く言い切ってしまいます。

「この世の生を離れた時にこそ、やっと真に生きることになるとみなして、常に後世を見据えた」というこの考え方が大カトーを常に徳の高い人間であろうという動機のもとになっていました。彼の人生は、死を迎えることで全うされます。それどころか、まさにそこか ら始まると言っても過言ではありません。

「私は無駄に生まれてきたと思うことがないような生き方をしてきたし、それに、この世の生を去るにあたっては、いわば、わが家から去るのではなく、宿から去ると言う心づもりでいるからだ。というのも、自然がわれわれに与えた住まいは、住み続けるための家ではなく、仮寓するための宿にすぎないのだからね。」そう大カトーは締めくくりました。

 

感想

 老いたらもうどうしようもないと発言する人達に関しては努力が足りない、鍛錬が足りないという結論です。真面目に毎日植物の面倒を見る農業者は尊敬できるという点からも、快楽や怠惰に関して反感を持っているようなところがあります。

彼は入念な鍛錬や準備をしておけば老後もそう悪くないとし、老後ならではの楽しみ方を身に着ける必要があるとします。そのような生き方ができれば人も集まり孤独にはならないというわけですから、結局、老いの問題は大体が自己の修練不足にあると考えているわけです。これはキケローが努力をもって政治家として成功していた自負によるのかもしれないです。

 また死んだらどうなるかについては肉体の制限から魂が自由になり、悪いことにはならないだろうといったソクラテスに近い観念を持っているようです。つまり死は無になるんじゃないという訳ですが、死んだらもっと悪いところに行くという地獄のような発想がないのは疑問です。死後の世界が分からないから怖がらなくて良いというのは、逆に分からないからこそ悪くなる可能性があることを含まざるを得ないわけで、その不安感が死への恐怖の一端になっていると思うのです。この点キケローはポジティブな人です。

 一方で人間には、終わるべき時宜があるのだからそれを有難く受けよという、死への姿勢は達観しています。ただそこに至るには、死とは何かと自分なりに結論を出しておくことや老後までに自分は一所懸命努力してきたという自負が必要になってくるわけです。

死後の世界を信じるかどうかは個人の信仰によるので無理強いはできませんが、たゆまぬ努力が老後を豊かにするというこの一点は皆同じだと思いました。

 

 老いることを楽しめるようにするためには、一体どういうことが必要なのか?

 当然キケローのいた時代とは異なるものも必要になると思います。しかし、体力や健康の基礎作りのようなものは今も昔も変わらない気がします。

 

 そして老後も愛される人間になるための努力、作中では徳で書かれていますが、なかなか難しそうです。

 現代版にキケローの思想を生かすならどうすべきか、こういうことも哲学読みの楽しみですね。ここはもう少し考えて見たいと思います。

 

 ここまで読んでいただきありがとうございました。