眠れない夜は哲学書を読もう③『短い生について』セネカ

眠れない夜は哲学書を読もう③ 「生の短さについて」セネカ

 

使用したテキスト

『生の短さについて』 セネカ著、大西英文

 

作者について

[前4~後65]ローマのストア学派の哲学者、政治家、劇作家。スペインのコルドバ生まれ。皇帝ネロに使えたが、のちに謀反の疑いを受け、命令によって自殺した。常に道義を説き実践哲学を主張した。

 

あらすじ

親戚パウリヌス宛の書簡。パウリヌスはローマの食糧長官を務めていた。セネカはいつか死ぬという人生の中で善く生きるにはどうするべきかを説く。

セネカは言う「生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏するのではなく、生を蕩尽する、それが真相なのだ」と。

果たしてセネカは限定付きの人生をいかに生きるべきと説いたのか?

 

内容

セネカは、人生は十分の長さがあると言います。なぜ人生は短く感じられるのか?この問いにこう答えます。

「生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏するのではなく、生を蕩尽する、それが真相なのだ」

つまり人々は時間を無駄遣いしているからこそ、時間が足りないと感じているにすぎないと言うのです。上手く使いこなすことが出来れば、人生は十分に長いことになります。

 

セネカの重要な視点は、いかに自分の時間を守るかということにつきます。

例えば裁判の現場を想定すれば、そこには裁判官、検事、原告、弁護士、被告、陪審員、傍聴人と多くの人が参加していることに気づきます。しかし、ここに参加したすべての人が他人の権利について思い煩うのであり「みずからを自由にする権利」を主張することはないとセネカは言います。「誰もが他人の誰かのためにみずからを消費しているのです」

一見、原告や被告は自身を守るためにやっているように見えます。しかし、人間が一生でやらねばならぬことは、このような裁判にはないのです。

 

セネカは人があまりにも無遠慮に、他人の時間を要求し自分の時間を分け与えている現状に警鐘を鳴らします。このように無意識に時間を分け与えていると、気づいたときには老いており悲嘆にくれることになるのです。

「自分の金を他人に分けてやりたいことを望む人間など、どこを探してもいない。ところが、自分の生となると、誰も彼もが、何と多くの人に分け与えてやることであろう。財産を維持することでは吝嗇家でありながら、事、時間の消費となると貪欲が立派なこととされる唯一の事柄であるにもかかわらず、途端にこれ以上ない浪費家に豹変してしまうのである。」

「誰もが永遠に生き続けると思って生き、己のはかなさが脳裏によぎることもなく、すでにどれほど多くの時間が過ぎ去ってしまったか、気にもとめないからである。誰がために、あるいは何かのために費やされるまさにその日が、あるいは最後の日となるかもしれない状況の中で、あたかも満ち満ちておりあり余るほどあるかのごとく生を浪費するからである。」

 

〇老後の楽しみは駄目

セネカは老後に楽しみを取っておくことに反対します。一番楽しいことを心から堪能できる時代を他人のために使用していることは果たして正しいのか?と問い掛けるのです。

「生の残り物を自分のためにとっておき、もはや何の仕事にも活用できない時間を善き精神の涵養を自分のためにとっておき、もはや何の仕事にも活用できない時間を善き精神の涵養のための時間として予約しておくことを恥ずかしいとは思わないのだろうか」

「生を終えねばならないときに至って生を始めようとは、何と遅蒔きなこと」

 

〇忙しい人間は短い生を生きる

多くの仕事に囲まれ日々を過ごす人間、セネカはこういった人々を、無理やり口に食べ物を詰め込む人間に例えます。すべての味は一緒くたになってしまい、最後はむせて吐きもどしてしまう。このような食事をする人間は、果たして味わっていると言えるのか?

そしてこの疑問はこのようにも読み取れます。むしろ、ゆっくりとでも一品ずつかみしめる人間の方が豊かな食事をしているのではないか?

「諸々の事実に関心を奪われて散漫になった精神は、何事も心の深くには受け入れられず、いわばむりやり口に押し込まれた食べ物のように吐きもどしてしまう」

「何かに忙殺されている人間のいまだ稚拙な精神は、不意に老年に襲われる。何の準備もなく、何の装備もないまま老年に至るのである。あらかじめその用意を整えておかなかったからだ」

 

〇理想の生き方は「他人の支配を脱する」ということ

セネカは言います。

「人間的な過誤を超越した偉人の特性は、自分の時間が寸刻たりとも掠め取られるのを許さないことなのであり、どれほど短ろうと、自由になる時間を自分のためにのみ使うからこそ彼らの生は誰の生よりも長いのである。彼らの生の寸刻たりとも人間的陶冶に費やされず、実りに費やされぬ時間はなく、寸刻たりとも他人の支配に委ねられる時間はなかった」

「誰もが現在あるものに倦怠感を覚えて生を先へと急がせ、未来への憧れにあくせくするのである。だが、時間を残らず自分のためにだけ使い、一日一日を、あたかもそれが最後の日ででもあるかのようにして管理する者は、明日を待ち望むこともなく、明日を恐れることもない」

 

〇今やることが大切

セネカは時間の浪費のひとつとして先延ばしを非難します。

「先延ばしは、先々のことを約束することで、次の日が来るごとに、その一日を奪い去り、今という時を奪い去る。」

「生きることにとっての最大の障害は、明日という時に依存し、今日という時を無にする期待である。」

 

〇過去を使いこなす必要がある

毎日を忙しく過ごす人達にとって過去は振り返るいとまがありません。しかしセネカは、この過去こそが時間制限付きの運命における支配を脱し、恐怖や病にも侵されぬ聖域なのだと主張します。自分の生のどの部分でも好きな時に省みれるという行為は心に余裕が無ければできないのです。

さらにセネカは人間が学問を通して、自分の生きた時代を超えた過去を利用することができるとしました。過去の偉人達はセネカに言わせてみれば「われわれのために生を用意してくれたと考えねばならない」と言います。

 

「われわれに閉ざされ、禁じられた世紀はなく、われわれはどの世紀にも入って行くことが許されており、精神の偉大さを支えに、人間的な脆弱さから来る狭隘な限界を脱却したいと思えば、(その知の世界を)進化する時間はたっぷりとある」

「自然がこうしてすべての時代の遺産を共有することをわれわれに許してくれているのであってみれば、今という短くして移ろう時の流れから離れて、過去という悠久にして永遠でありより善き人々と共有する時へと全霊を傾けて身を委ねずして何としよう」

 

セネカは本の中の人々は、いつでも自分にあってくれ、常に訪れたものをより幸福にしてくれると言います。困ったことや些細な疑問を聞いてくれ、馬鹿にせず真実のために向き合ってくれるそんな経験ができれば生きることは充実すると説きます。

「彼らと庇護関係に入った者には、どれほど大きな幸福が待ち受け、どれほど美しい老年が待ち受けていることであろう。」

 

〇本当にやるべきことは何か

セネカは仕事によって他人のために自らを擦り減らす人間を否定しました。

彼はさらに怠惰や快楽に溺れる人間は最も恥ずべき生き方であるとして、さらに厳しい非難をよせます。

「この手の人間は閑暇の人と呼んではならず、別の名で呼んでやらなければならない。病人なのである。いや、死人なのだ」

「多くの手間暇がかかる快楽にとりつかれている者たちは閑暇の人ではない」

そして理想の自らの時間を使う人間を以下のように言います。

「閑暇の人とは、自分が閑暇を享受しているという自覚をも有する人のことなのである。自分の状態を示してくれる他人を必要とするような半死人が、いかにして自分の時間の主人でありえよう」

同時に名誉や記念碑、労力、法律といったあらゆるものが長い時間の中で消え去ってしまうことを指摘します。己の力を尽くして手にした幸福もいずれ消えてゆく不安定なものであり、それを入手するために努力し、維持するために努力し、いつか奪われはせぬかと怯え、最終的には努力の甲斐なく消え去ってしまう。このような人生を送る者の人生は短く、そして惨めであるとセネカ

そういった世界で、唯一変化しないものは聖化された英知だけが残ると言います。

だからこそ、その知識を用いる賢者であれと言います。

「幾許かの時が過ぎたとしよう。賢者は回想によってその過去を把握する。時が今としよう。賢者はその今を活用する。時が未だ来らずとしよう。賢者はその未来を予期する。賢者はあらゆる時を一つに融合することによって。みずからの生を悠久のものとするのである」

この世界はいかにして成り立っているのか、神はどういった存在か、死ねばどうなるのか、こういった永遠性を理解することに努めるべきというのがセネカの考えです。

 

感想

自らも政争に巻き込まれ命の危機に面したことのあるセネカの思いが伝ってくるようです。彼もまた多くの人のために自らの時間を費やしました。元老議員になるも失脚し、8年間の追放にもあっています。その後幼いネロの教育を任せられ、ネロが皇帝になると執政官を務めました。55年に引退を申し出て文筆活動に入ります。そして65年、陰謀事件に連座したとして自決しています。

セネカは決して自分勝手に放埓な暮らしをする者ではありませんでした、むしろ政治に肩入れし積極的に人と関わっていった人間です。おそらく自身も多くの時間を他人に費やしたことを知っているからこそ、この手紙を書いたのだと思われます。経験に裏付けされた「親愛なるパウリーヌス、そういうわけだから、俗衆から離れるがよい。ようやく静謐の港に帰りつくがよい」という一言が重く心に響くのは私だけでしょうか?

またこの作品キケローに言及しています。セネカキケローの死後40年ほどして生まれていますからそんなに離れていません。

彼が言うにはキケローはある任務を任され別荘に詰めていたのですが進捗は極めて遅かったようです。そして手紙に「半ば自由、半ば囚われの身で、トゥスクルムの別荘でぐずぐずしている」と書いてあったそうで、セネカキケローも賢者ではなかったとしています。賢者なら常に完全な自由であったはずだと言うわけです。

それではセネカは賢者だったのでしょうか?これは違いますね。この作品中にもこの人が賢者だと言う人は出てきませんでした。賢者とは遥かに高い理想であり存在しない夢物語なのかもしれません。しかし、賢者に近づくことはできる。努力目標としての賢者は考え方として非常に有効だと私は思います。

 多くのしがらみの中で、これだけは譲れない自分の時間と定め。ある時、ここは自分の時間を犠牲にしても何かにに使いたいと思える瞬間が来るとすれば幸福な気がします。なされるがまま時間の言いなりになって忙殺されるよりも、自分の意志で時間をやりくりうることの大切さ。そして今だけでなく、知識を用いて過去や未来へと私たちは発想を拡張できるという視点。

「何でこんなことやってんだろう」と思ったときに、「自分はやりたいことをやれているのだろうか」「今自分は短い生をいきていないだろうか」と立ち止まって考えてみるのも大事だと思わせる哲学書でした。