矛盾 韓非子は何を伝えたかったのか?

矛盾 韓非子は何を伝えたかったのか?

戦国時代のこと、楚の国の商人が盾と矛を売っていた。

商人は盾を指し「この盾はどんなものでも突き通せない」というや、矛を見せ「この矛に貫けないものはない」という。

それを見ていた客が「それじゃあ、その矛でそこにある盾を貫いたらどうなるんだい?」と尋ねると、答えに窮した商人は口をつぐんでしまった。

 

今でも前後のつじつまの合わないことや両立しないことを矛盾というが、それは先に挙げたような話がもとになっている。実はこの話は『韓非子』という中国の戦国時代に活躍した思想家韓非子が初出とされている。

興味深いのは矛盾の話は本題ではなくて、あることを言うために分かりやすく言えばこうだよねといったような例えであったことである。果たして韓非子は何を伝えようとしてこんな挿話を思いついたのだろうか?

 

中国の春秋戦国時代(771~前221)には、戦国の七雄と言われた韓・魏・斉・趙・燕・楚・秦が覇権を握るため相争い、内政や外政を優位にするため様々な思想家が求められ活躍した。孔子をはじめとした儒家、道を説く老子道家、人類博愛の精神と技術を誇る墨家、そして人間の欲望に注目し、それを法によって管理しようとする法家などが一斉に現われ我こそが真実を説くものだと覇を争ったのである。一気に咲き乱れるような思想の数々は諸子百家や百家争鳴といった言葉で表現される。韓非子はこの中の法家の代表的な人物である。

 

そこでまず、韓非子と法家について簡単に説明しておこう。

韓非子は、前3世紀頃、韓の国王の庶子として生まれる。韓は戦国の七雄の中でも一番の小国で、特に西に国境を接する秦の勢力に戦々恐々としていた。韓非子は自国の国力を向上するための方法を荀子に学びながら構築していった。それが法と賞罰による徹底した管理社会への道であった。法律を軸に国政を考える思想自体は韓非子以前から存在していた、秦の商鞅や韓の申不害などがそうで彼らを含めて、このような思想をもった思想家たちを法家という。

 

先ほども述べたように、法家は人間の本質を悪と見る。そのため人間を考えるときは、いかにして悪に染まりやすい人間を御するかが発想のカギとなる。そしてその制御を行う上で重要視されたのが、まさに法とそれによる恩賞や罰則だったのである。

そうした現実的な思想をもつ法家にとって儒家は理想論ばかりをぶち、現実に有効な手段を講じることがない口だけの集団に思えたに違いない。

そんな儒家の理想主義に、五帝による徳治というものがあった。五帝とは黄帝、顓頊(せんぎょく)、帝嚳(ていこく)、帝堯、帝舜であり聖人による徳に満ちた理想的な政治が行われていたとされる。儒家にとって戦乱に溢れた現実は否定され、理想化された過去への憧憬とその再現こそが忠孝や礼の尽くされるあるべき世の中ということになる。

 

儒家によれば尭と舜を完全無欠の聖人として扱っていた。ある時、儒者が瞬は農業や漁業、陶芸などの弊風を改めたことを褒めていた。そこで韓非子は「その時先帝であった尭はどこに居たのか」と疑問を口にする。

完全無欠な聖人である尭が居たはずなのに、どうして改善の余地があったのか。もし改善できたなら少なくとも尭は完全無欠な聖人とは言えない。そんな理想論をぶつまえに、現実的な法制度を手っ取り早く確立させたほうが良いというのである。我々は聖人ではないのだからできるところから手を付けようという批判がそこにはあった。そしてそのことを面白おかしくいったのが「矛盾」の話だったのである。

 

さて韓非子は、秦が韓に攻め入った際に使者として秦へ入った。秦王政は韓非子の思想に大いに賛同したが、寵臣の座を奪われることを恐れた李斯によって牢獄に入れられ、韓非子は毒を仰いで死んだという。

秦王は儒家の思想ではなく、韓非子の思想を大いに政治に活かし、秦が中国統一を果たした後の政治はまさに法家のそれであった。韓を守るために考え抜かれた統治者の真髄が自国で顧みられず、敵国秦によって実現したのはまさに皮肉であったといえる。

 

ここまで読んで下さりありがとうございました。