青空文庫読書日記③ 感想『陰翳礼賛』谷崎潤一郎

はじめに

今回は谷崎潤一郎です。有名な作家の一人なのですが、いつか読もうと思っていても、なかなか手に取る機会がなく、ここまでずるずると引っ張ってきた作家でもあります。ブログに書くという理由をたて谷崎作品デビューとさせていただきます。

今回は数ある作品の中から『陰影礼賛』を選びました。というのも妖怪学の本を読んでいるときに、この作品に触れられているものがありまして、そこから日本人がどのようにして薄闇のような空間を捉えていたのか?という論考を谷崎潤一郎がしていたと知って以前から気になっていたわけなんです。

 

作者について

1886年、東京の日本橋に生まれの作家です。『痴人の愛』や『刺青』など官能的な作風が強いものを書き耽美派の代表的人物になります。日本の古典にも造詣が深く、『源氏物語』の全訳を手掛けていたりもします。

 

あらすじ

谷崎潤一郎がエッセイのような形で日本人と陰翳との関係がどのようなものであるかを述べたもの。最初は西洋文明を和風家屋に入れる家普請の苦労から始まって、ついには芸術論、文化論まで発展していく。

 

お気に入りの部分

「日本の厠は実に精神が安まるように出来ている。それらは必ず母屋から離れて、青葉の匂や苔の匂のして来るような植え込みの蔭に設けられてあり、廊下を伝わって行くのであるが、そのうすぐらい光線の中にうずくまって、ほんのり明るい障子の反射を受けながら瞑想に耽り、または窓外の庭のけしきを眺める気持は、何とも云えない。」

「そうしてそれには、繰り返して云うが、或る程度の薄暗さと、徹底的に清潔であることと、蚊の呻(うな)りさえ耳につくような静かさとが、必須の条件なのである。」

こんなにトイレの魅力を語る人は初めてみました。そう言われてみると昔ながらの日本家屋のトイレは素晴らしかったのかなと思わされるから不思議です。

 

「とにかくわれわれの喜ぶ「雅致(がち)」と云うものの中には幾分の不潔、かつ非衛生的分子があることは否まれない。西洋人は垢を根こそぎ発き立てて取り除こうとするのに反し、東洋人はそれを大切に保存して、そのまま美化する、と、まあ負け惜しみを云えば云うところだが、因果なことに、われわれは人間の垢や油煙や風雨のよごれが附いたもの、乃至はそれを想い出させるような色あいや光沢を愛し、そう云う建物や器物の中に住んでいると、奇妙に心が柔いで来、神経が安まる。」

「昔からある漆器の肌は、黒か、茶か、赤であって、それは幾重もの「闇」が堆積した色であり、周囲を包む暗黒の中から必然的に生まれ出たもののように思える。」

「古えの工藝家がそれらの器に漆を塗り、蒔絵を画く時は、必ずそう云う暗い部屋を頭に置き、乏しい光の中における効果を狙ったのに違いなく、金色を贅沢に使ったりしたのも、それが闇に浮かび出る工合や、燈火を反射する加減を考慮したものと察せられる。」

「諸君はそう云う座敷へ這入った時に、その部屋にただようている光線が普通の光線とは違うような、それが特に有難みのある重々しいもののような気持がしたはないであろうか。或はまた、その部屋にいると時間の経過が分からなくなってしまい、知らぬ間に年月が流れて、出て来た時は白髪の老人になりはせぬかと云うような、「悠久」に対する一種の怖れを抱いたことはないであろうか。」

「案ずるにわれわれ東洋人は己の置かれた境遇の中に満足を求め、現状に甘んじようとする風があるので、暗いと云うことに不平を感ぜず、それは仕方のないものとあきらめてしまい、光線が乏しいなら乏しいなりに、却ってその闇に沈潜し、その中に自らなる美を発見する。然るに進取的な西洋人は、常により良き状態を願って已まない。」

「私は蘭燈のゆらめく蔭で若い女があの鬼火のような青い唇の間からときどき黒漆色の葉を光らせてはほほ笑んでいるさまを思うと、それ以上の白い顔を考えることが出来ない。」

 

感想

 今、僕はパソコンの前に座っているのですが、部屋の電気はついているし、窓から外を見れば近所のスーパーマーケットからこぼれんばかりの灯りが見えます。こういう明るいところに居ることになれっこになっていることは便利なのではあるけれど、実は想像力や美的感覚を失って行きつつある最中なのかもしれない……、そういう思いがしてくるような作品でした。

 この作品には日本人が西洋的な明るく、清潔な文明を、無理をしながら受け入れることで問題が生じているのではないかと指摘します。明治維新以降、海外に追いつくためにかなり無理をした日本。そこで失われたものもあるのではないか。明治時代以降、旧弊打破、海外列強に追いつけ追い越せといった西洋化によって、確かに生活は豊かになったのだが失われたものもあったのではないかと考えて見るのも面白い気がします。

 

「西洋の方は順当な方向を辿って今日に到達したのであり、我等の方は、優秀な文明に逢着してそれを取り入れざるを得なかった代りに、過去数千年来発展し来った進路とは違った方向へ歩み出すようになった。そこからいろいろな故障や不便が起っていると思われる。尤もわれわれを放っておいたら、五百年前も今日も物質的には大した発展をしていなかったかも知れない。」

「そこでわれわれは、機械に迎合するように、却ってわれわれの藝術自体を歪めて行く。西洋人の方は、もともと自分たちの間で発達させた機械であるから、彼らの藝術に都合がいいように出来ているのは当たり前である。そう云う点で、われわれは実にいろいろの損をしていると考えられる。」

 

 谷崎潤一郎はせめて自分の作品の中に、時代の中から失われつつある陰翳をしのばせておこうと書いています。

「どうも近頃のわれわれは電燈に麻痺して、証明の過剰から起こる不便と云うことに対しては案外無感覚になっているらしい。」

「私は、われわれが既に失いつつある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の檐を深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとは云わない、一軒ぐらいそう云う家があってもよかろう。まあどう云う工合になるか、試しに電燈を消してみることだ。」 

 

 思いを巡らせてみれば、明治時代以前の日本人は電灯なんてない世界で暮らしていたのですね。当たり前になっているこの電灯と云うものに新しい視点を与えてくれたこの作品は非常に意義深いものでした。

 暗闇の中でほんのりとした灯りを探すという楽しみ方は初めて意識したような気がします。

 

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