弥助

弥助


日本の歴史の中で外国人の武士といえばだれを思い浮かべるでしょうか?
私は一番に三浦按針を思い浮かべます。
本名はウィリアム・アダムス。
1600年に日本に漂着し、家康に謁見、カトリック教であるイエズス会の誹謗を受けつつも信頼を勝ち取ります。というのも彼はイングランド人でプロテスタントだったんですね。
三浦按針の名前を与えられ、旗本の役職を得て帯刀を許されます。
そして海外の最先端の学問を教えつつ外交顧問として活躍しました。
青い目のサムライなんて紹介されるとかっこいいですね。

しかし今回は按針ではなく外国人の武士の中から「弥助」を紹介したいと思います。
彼は織田信長に気に入られて武士となり刀と家を与えられています。
本能寺の変にも参加していたと言われています。
ではなぜ彼を取り上げるかといいますと以下の記述に興味をひかれたからなのです。
信長公記』において弥助について「切支丹国より、黒坊主参り候」、「牛のように黒き身体」という記述があります。
そう、彼は黒人だったのです。
1581年の時点で日本に黒人がいて、さらに武士として暮らしていた……。これは大変な驚きでした。初めて見たときに思わず理解できず首をかしげてしまったほどです。
そもそも彼はどうして日本に居たのでしょうか?そこから見ていきたいと思います。
織田信長の活躍していたころには南蛮貿易が発展し、海外からの珍しい商品を載せて来ました。
鎖国はまだ行われていませんからオランダだけではなく、ポルトガルやスペイン、イングランドなど多くの国が訪れていました。
そんな16世紀に注目された商品の一つが黒人でした。当時は人買いが当たり前のように行われていたのです。弥助もその一人だったようです。
イエズス会の巡察師ヴァリニャーノが信長に謁見する時に連れてきたのが弥助でした。初めて黒人を見た信長はその肌色をにわかには信じられず水で洗わせて色が落ちないことを確認して初めて納得したとか。
興味をひかれた信長が交渉し部下にしたという流れだったようです。
記録によれば身長は六尺二分(およそ182㎝)あったそうで、今でも十分高いですし当時からすれば相当大きかったろうと推測されます。
(ちなみに江戸時代の男性の平均身長は155~156㎝だそうです。)

火縄銃の採用や楽市楽座の導入など先進的な視点を持っていたというイメージの強い信長は日本で初めて黒人を部下にした男でもあったのです。

時は流れて、1582年6月21日、明智光秀による本能寺の変が起こります。
伝承によれば明智光秀は弥助を前にして「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として逃がしたとされています。
では逃げた弥助はその後どうしたのか?
実は記録はここで途絶えてしまっているためにまったく分からないそうです。
弥助は非常に目立つ存在だったはずで後の記録がないとなると、本能寺の変で生き延びていたかどうかさえ疑わしいものです。

とあるTV番組では弥助の故郷と思われるモザンビークに、ヤスフェという名前の人が一定数居たことからこれが弥助の名前のルーツではないかという仮説や、キマウという着物のような服を着て行う祭りがあることから弥助が無事に生まれ故郷に帰って日本の文化を伝えたのではないかという非常に興味深い見解を示しています。
こういう歴史に書かれていない部分を想像してみるというのは非常に面白いものです。

 

以上が弥助の話です。
彼は決して歴史を変えたわけでもないので教科書には載っていませんが16世紀の日本が世界と繋がっていたという不思議な感覚を呼び起こされます。
奴隷としてアフリカのモザンビークから日本へやって来て、織田信長の下で武士となりその主人の劇的な死を目の当たりにした弥助。まさに数奇な人生を送った彼こそ歴史として語り継ぐに値するのではと思うのです。

今後戦国の世の中を考えるときに黒人の武士、弥助という男が活躍していたということにほんの少しでも思いをはせていただければと思います。

余談ですが、こういう本筋とは関係ない話を知っていると歴史を知るのがさらに楽しくなってくるものです。たまには融通無碍に物事を見てみるのもいいものです。

今日はこの辺で失礼いたします。