『小説十八史略(一)』2章 感想その1 「伍子胥 復讐に生きる人」
『小説十八史略(一)』2章 感想 その1
※ネタバレを含みます。ご注意ください。
2章はずばり「復讐」がテーマですね。
全体を俯瞰しますと、まず晋という国をめぐる話。ここでは、晋の献公によって故郷を攻められ、献上品として贈られる憂き目にあった驪姫(りき)による復讐の話です。
彼女の思いついた復讐は晋という国を内部から崩壊させようとするものでした、あらゆる謀略と奇計を用いて内紛を起こしていく様は恐ろしいの一言です。
この話では献公の後を継ぐ政治的争いも絡み、目の離せない内容になっています。
もう一つの話は「呉越同舟」や「臥薪嘗胆」などの有名な故事のもとにもなった、呉と越の戦争が書かれています。
ちなみに「呉越同舟」の初出は『孫氏』という兵書で、九地篇に出てきます。
現在では仲の悪い者同士が一緒になっているという意味合いが強いと思いますが、もともとは呉と越は仲が悪いが、同じ船にのり、風を受ければ自然と協力するものだ、困難の前ではいがみ合っていた者同士も団結するのだという、プラスのイメージの言葉なんですね。
今回はこの呉越の争いに焦点をあてたいと思います。
この話では復讐心の象徴ともいえる伍子胥の話から始まります。最終的には死体に鞭を打って無念を晴らそうとしたシーンさえあります。
なぜ彼はそれほどまでの復讐を誓ったのでしょうか?
ときの楚のあるじ平王は、跡継ぎの皇太子のための嫁候補を費無忌という部下に探させます。見つかったのは絶世の美女ともいえる人物でした。王はこれを自分の妻とし、費無忌はこの功績によって昇進を果たします。しかし皇太子が後を継げば、わが身はどうなるのか……、費無忌は気が気でありません。そこで謀反の疑いありとして、皇太子の罪をでっちあげます。その時、平王はこの美しい妻の生んだ子どもに跡を継がせたいと思っていたため、利害が一致していたんですね。もう、今の太子はいらないと。
平王は太子の世話係である伍奢、伍子胥の父を呼びつけます。伍奢は太子の無実を訴えますが捕まり、太子にも追手がかかってしまいました。
平王は伍奢の二人の息子に、来れば伍奢の命だけは助けてやる。と言いつけます。
しかしこれは罠だと兄弟は気づいていました。行って父が助かるはずはない。それどころか行けば殺されるのではないか。
弟の伍子胥は「他国へ亡命して、父のカタキを討つことを考えるべき」だと主張します。
兄の伍尚はと言えば、「息子が行けば、あるいは父は助かるかもしれないのに、行かなかったとあれば、後世、天下の物笑いになる」と行くことを決めます。そして弟に「復讐もできずに、兄弟そろって、おめおめと死んだとあっては、恥辱」として、もしも父と自分が死んだら復讐は任せたと言うのです。「父上は息子が二人いて、よかったぞ」という台詞と兄の笑顔が印象的なシーンです。
結果、平王は伍奢と伍尚を殺してしまいました。
この事件が伍子胥を復讐の鬼としたのです。伍子胥は太子である建とともに逃避行を続けます。宋、鄭、晋を転々とします。建は晋の傾公にそそのかされお世話になった鄭国を襲おうとし失敗し、斬首されてしまいました。これで伍子胥は鄭からも追われる身になってしまいました。
伍子胥は建の息子である勝を連れ、苦労を重ね、何とか呉へたどり着きます。
伍子胥は橋の上で乞食のような暮らしをし、呉の僚王の息子の一人である光に目をつけます。機会を得て話をつけ、見事その才能を光に見出され、重用されるようなります。
光は僚を倒し、新たな呉の王となりました。
面白いのはその際、伍子胥は僚王を仕留める人物を推薦しただけで、自らは田舎で晴耕雨読の生活を行っていたということです。自らがどういう人間か、いつ役に立つかを考えた末の行動だったようです。
この光が起こしたクーデターが起こる前にあることが起きました。それは伍子胥の復讐の対象であった楚の平王が死去してしまったのです。
「(楚の国そのものが、おれのカタキだ。平王が死んだとて、楚の国は存在する。おれは楚を討つのだ!)」と自らに言い聞かせます。復讐心を失くしては生きてはいけないのです。
不思議な話ですが、伍子胥は憎き相手の孫を大事に連れて亡命をしています。
その理由はこんな風に解釈されています。
「カタキと血のつながるそなたに、私がなぜ心を寄せ、今日までそなたを養ってきたか知っておるか?」との問いに、勝は答えます「知っております。あなたは父と兄を殺されました。私も父を鄭にころされました。おなじくカタキをもつ身だからです。」
復讐心による共感だったのでしょうか?私は憎いのは平王だけで、勝には罪はないというような解釈もありかなと思ってしまいますが。
光が呉王闔閭(こうりょ)になって4年。
遂に呉は楚へと進軍しました。ちなみにこの戦争に先ほど「呉越同舟」の話で取り上げた『孫子』の作者である孫武が活躍しています。彼は呉の参謀総長クラスだったんですね。民衆の疲れ具合をよく観察し、ここだというタイミングで楚に全討伐をかけました。時期が熟す迄なんと第一回目の討伐から五年も待っていたというのですから、人並みではありません。楚の都に入った伍子胥は16年間かけた復讐を果たすため平王の墓を暴き、鞭をふるいました。「これを鞭うつこと三百、しかる後やむ。」
伍子胥の行為を聞いた友人の申包胥は、いつか報いを受けることになると言ったそうです。
伍子胥は「日暮れてまた遠し」と、時間の余裕のなさゆえにこのような性急な行動になってしまったと返しました。
書いていたら随分と長くなってしまいました……。
遂に念願の復讐を果たした伍子胥ですが、彼は呉で非業の死を遂げることになります。果たして何があったのか?
そして呉と越の戦争はどのようにして始まり、いかにして幕を閉じたのかは次回にしたいと思います。