『犠牲 わが息子・脳死の11日間』を読みました。

『犠牲 わが息子・脳死11日間』を読みました。

 

主な登場人物

柳田邦夫氏…賢一郎、洋二郎の父親。この本の作者でありノンフィクション作家。

賢一郎氏…邦夫の長男。洋二郎の兄。

洋二郎氏…邦夫の次男。賢一郎の弟。中学生の時に目を怪我しそれ以降対人恐怖症を発症。25歳になっても社会に上手く出て行けず悩みを抱える。

 

柳田邦夫氏の『犠牲 わが息子・脳死11日間』を読んだので感想をまとめておきたいと思います。

 

「普通に生きる」ということがどうにもうまく行かない人間が居る。きっかけはさりげない出来事かもしれないし、誰もが納得するような恐ろしい体験だったりするのだろう。洋二郎氏にとっては、それは中学校の時に同級生とふざけあって物を投げあっていた内に、その一つが目に当たってしまい入院治療を必要とする怪我を負ってしまったことがきっかけであったらしい。それ以降「視線恐怖と対人恐怖と脅迫思考を主訴とする神経症」が形を表してくる。もちろんそれ以前も、それ以降もさまざまな理由が複雑に絡み合って人格を形成するのだからこれはある一瞬でしかないのかもしれないけれども。

 

この本の主題は、25歳で自殺をした洋二郎氏が、何とか病院に運ばれるも脳死状態となり11日間をかけ緩やかに死に向かって進んでいく。そんな彼と家族の最後の交流が描かれている。その中で父親である柳田邦夫氏を中心として「人間の死とは何か」「脳死とはどういうものか」「洋二郎は今まで何を考えてきたか」「洋二郎はこの状態で何を望むだろうか」「自分には何ができるのだろうか」というような問題が取り上げられていく。この本は脳死を考える上でも重要だが、それは一面的で人間の生きるということ自体が根源的に問い直されいるような気がしてならない。

 

今までは心臓死が一般的だったが、これからは脳死が人間の死である。というのも妙な話で死ぬという現象が科学によって問い直されていることがよくわかる話ではある。脳死は「呼吸・循環機能の調節や意識の伝達など、生きていくために必要な働きを司る脳幹を含む、脳全体の機能が失われた状態」(1)でありしかも二度と元に戻らない状態を言う。鑑定には二度の測定が必要とあるが、それで脳死であると説明されたとして、果たして「そうですか」とあっさり受け入れられるだろうか?少なくとも脳死判定された時点では機械のおかげとは言え呼吸もしているし、体温を保った身体がベッドに横たわっているのである。

自然に考えれば何度も声をかけて見て、ゆすってみて、それでも返答もなく、呼気もなく、段々と冷たくなっていく姿を見てやっと死を迎えたのだと実感するのではないだろうか。

 

この本では脳死が新しく人間の死になるのであれば、遺伝子死だって認められるのではないかというような話も載っている。人間の死がこのような幅広い議論の余地を持ち始めたのも科学技術の発展のもたらした結果だろう。しかもどれもが基礎の部分は正しいのだから問題は難しくなってくる。

心臓死なら全身に血が回らなくなった時点で死亡、脳死なら脳幹が機能を失い全身を制御できなくなったら死亡、遺伝子なら子どもを作るたえの生殖細胞が作れなくなったら死亡。どれも一見すれば間違っていない。そもそも人間の死とは何かを誰の疑問もなく決めるのは今の科学においても難しい。

 

なぜなら生きるということ自体が様々な現象の集合体で捉えなければ把握できない類のものだからだ。人間の細胞は一説によれば全部で大体60兆個になるらしいが、いたずらに細胞を並べても人間にならないし、一個一個の細胞が生きていても全体として生きているという風にはならない。人間、人間としての生、人間としての意識……これらは複雑系の上にしか成り立たない。

人間全体から細胞を一個とったところで生きるのに問題はない。しかし致死的な領域が心臓や脳幹といった臓器である。機能を失えば死に至る。しかしそれでも残った部分は懸命に生きようとしている。脳幹の機能が失われ体温が維持できまいと、血圧が低下しようと、尿が垂れ流しになろうと身体は全体として最後まで活動を続けている。

 

だから私は人間の命は状態であると考えるといいと思っている。

遠回しな言い方になってしまうがこれは人が川をどう見ているかと同じである。

方丈記』において「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という言葉がある。一つとして同じものはないという無常観を感じられる一文だが、川は川のままである。厳密にいえば一瞬前に見た川は、構成要素である水の配置が変わってしまったから存在しない。改めて見たらまったく新しい川が存在していることになる。川は常に新たな川に更新されている。

それでも人間は以前見た川と同じ川だという。これは川を状態として見ているからである。つまり川とは「大きな窪みに水が溜まり、さらにそれが方向性をもって流れている様子」の事なのである。だから川は状態として変化を含むことができる、水面が荒れていても穏やかでも、水かさが増しても減っても、水が濁っていても清らかでも、流れが急でも緩やかでも、川は同じ川である。ところが何らかの理由で川の流れが途絶えると川は池になってしまう。干上がれば川ではなく地面になってしまう。増水してあたり一面水たまりになってしまえばどこが川だか分からない。

人間という存在も確固たる何かがあるのではなくこうした状態として捉えられているのだと思う。毎日食べて出して、新しい細胞を作って古い細胞を捨てて一日たりとも細胞の構成要素は同じでないのに同じ一人の人間であることは何とも不思議なことである。

 

この本の中で特に印象深かったのが以下の二つの場面である。

 

まず、柳田邦夫氏と長男賢一郎氏が、病院で意識の戻らないまま治療を受けている洋二郎氏の今後について話し合っている場面の会話で、

 

「毎日ずっと洋二郎の側に付き添っていると、脳の機能が低下しているといっても、体が話しかけてくるんだなあ。全身でね」

賢一郎もそう感じていたのか、と私はうれしい気になった。

「ぼくもそう感じるよ。言葉はしゃべらなくても、体が会話してくれる。不思議な気持ちだね」

 

次に賢一郎氏がドナーの兄として医者とコーディネーターに、洋二郎氏の「死後腎提供」を決心したときに伝えた一言で、

 

「ただ弟の臓器を利用するというのでなく、病気で苦しむ人を助ける医療に弟が参加するのを、医師は専門家として手伝うのだというふうに考えてほしいと思うんです」

 

この文章を読んだとき、まだ洋二郎氏という状態は家族の間で維持され生きていることを痛感した。例え意識不明であろうと脳死であろうと洋二郎氏の生は状態に変化があっても以前のまま同じ洋二郎氏として存在していたという事実に何とも言えない気持ちになった。

 

論理を尽くして見れば同じ川でも別の川になってしまう。「脳死即人間の死」という考えもまた人間の性急な論理の賜物ではないかと思ってしまう。

しかし同時に現実を見なくてはいけないのも事実である。人はいつか死ぬ。これはいかんともしがたい事実であり死そのものを否定することはできない。人間が医療技術の発達によって見つけた生と死の狭間にある一段階としての「脳死」をいかにとらえるべきか。もし自分の大事な人が脳死になったらと考える二人称の視点を柳田邦夫氏は提唱していたが、この本を読むだけでも知識としてだけの脳死の見方は大きく揺らぐことになった。

 

※1

用語の定義は以下からの引用。

日本臓器移植ネットワーク 臓器移植解説集 脳死植物状態

http://www.jotnw.or.jp/studying/4-2.html