明治時代の白人落語家 快楽亭ブラック
明治時代の白人落語家 快楽亭ブラック
落語はもともと落ちのある話ということでその名がついたそうです。江戸時代初期に安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)が始め現代まで続いている日本の伝統的な演芸のひとつですが、最近では桂三輝(サンシャイン)さんやダイアン吉日さんなど外国人の落語家も活躍されています。
日本の文化が海外に発信されていく過程はグローバルな時代ならではのことではないでしょうか。世界から日本に来て落語を学び、世界にこんな面白いものがあると発信してくれる人がいると言うのは落語に縁が薄い私でもなんだか嬉しい気持ちになってしまいます。
さて日本がグローバル化したのは決して最近だけの事ではありません。日本の大転換期のひとつといえば江戸時代から脈々と続いた鎖国が終わり、世界との通商を復活させた幕末、そしてそれに続き外国に追いつけ追い越せと文明開化を果たそうと躍起になっていた明治時代です。
その明治時代、すでに白人の落語家が存在したというのです。そして彼が日本で初めてレコードを販売した人物でもあったそうです。「江戸っ子顔負けのベランメエ調で、翻案物の噺などに独自の分野を切り開き、明治、大正時代の人気をさらった“青い目の落語家”」、「円朝と人気を二分」と新聞にもかかれた人気者。教科書にも辞書にも載らない人物ですが実に興味深いですね。
今日は明治時代に活躍した白人の落語家、快楽亭ブラックのお話です。
ヘンリー・ジェームズ・ブラックは1858年12月21日にオーストラリアの北アデレイド市で長男として生まれました。彼には弟と妹もいました。
父親のジョン・レディはゴールドラッシュで一攫千金を狙うも挫折し、当てを求めて日本へと赴きます。開港まもない1861年のことでした。彼は日本を気に入り家族を呼び寄せ、日本の情報を新聞としてまとめ国内や国外に伝えるために『ジャパン・ヘラルド』紙、『ジャパン・ガゼット』紙、『ファー・イースト』紙、『日新真事誌』を発行します。彼は辞書に名をとどめています。
ヘンリーは始め手品師として世に出て、演説、落語、催眠術と幅広い芸風を披露しました。当時人気絶頂であった講談師松林伯円にその手腕を買われて寄席に出るようになり、三遊派に加入し遂に真打として快楽亭ブラックを名乗るようになりました。
特筆すべきはやはり外国人ながら流ちょうな日本語で落語をしたということで民衆から親しまれていたようです。また持ち前の海外の知識を用いて海外事情を紹介したり、海外の本を翻訳したものを落語にアレンジしたりしていたようです。
驚いたのはディケンズの『オリバー・ツイスト』が人情噺『孤児(みなしご)』として速記本として公開していたということです。
あらすじは、孤児院で育った主人公は葬儀屋で面倒を見てもらうことになるのですが、酷い虐めにあい耐えかねロンドンへ旅立ちます。あてどのない主人公はスリ師の仲間に入れてもらいます。他の仲間のスリで誤認逮捕されてしまいますが釈放され、ある紳士が拠り所のない主人公の面倒を見ることになります。ある日スリの一味に出会い犯罪者集団の中に戻るされるのですが、次の強盗の最中に撃たれて仲間に置き去りにされてしまいました。被害にあった家族は主人公を介抱しました。
一方、自分の犯罪が明らかになることを恐れる共犯者。彼は主人公を捕らえ監禁してしまいます。これを憐れんだ情婦は主人公を介抱した被害者家族に事情を説明し救いを求めます、主人公の運命やいかに……くらいでしょうか。
快楽亭ブラックの『孤児』では、葬儀屋が甚兵衛、その女房がお初、雇人の小僧が平作、女中がお鍋。主人公もオリバーではなく高橋清吉ですし、親切な老紳士が福田勇吉、息子が善吉。スリ仲間がチビ吉、強盗に一緒に押し入ったのが松田八五郎、そして悪の親玉藤五郎と日本文化に沿って手が加えられています。
またストーリーも随所に日本文化に沿ったものになっており、当時の英国では考えられなかった同棲生活の関係や、原作には見られなかった情緒たっぷりの会話、道徳訓が入りアレンジされています。
現在も様々な訳のものがありますが、日本初の邦訳にして落語版『オリバー・ツイスト』、この作品国立国会図書館のデジタルライブラリーにて無料で閲覧できるので気になる方はご覧になってみて下さい。リンクを貼っておきます。
才能あふれるブラックは他にも指紋が事件解決の決め手となる世界初の推理小説とされる『岩手銀行血汐の手形』(1892年)や、犬が事件の解決に一役買う『剣の刃渡』(1892年)なども書いていたりします。
そして何と言っても特筆すべきは1903年に、ロンドン・グラモフォン会社と落語家達の間を取り持つ調整役として日本初の平円盤レコードの発売に尽力したことでしょう。その当時レコードと云えば蝋管と言われる筒形のものしか日本にはなかったわけです。最新のレコードには初代三遊亭円右、三代目三遊亭円右、四代目橘家円喬、三代目柳家小さん、浪花亭愛造、快楽亭ブラックなどの顔ぶれが並んだそうです。このレコードは同年の11月に販売されました。日本語と英語を自由に操るブラックの面目躍如でした。
日本文化を愛し、日本の芸能を愛したブラックでしたが家族との仲は良くありませんでした。インテリの父、そしてその遺志を継ぎ知的な職業に就いた弟や妹にとって、ブラックは卑しい職業についた家族の恥として扱われていたようです。
ブラックは1920年に隠遁。1923年10月29日にひっそりと亡くなった。横浜山手の外国人墓地に両親とともに眠っているそうです。
最後に横浜山手外国人墓地の墓碑に記された略歴を。
「快楽亭ブラック(一八五八~一九二三)
J・R・ブラックの長男で、オーストラリア生まれの落語家。両親に連れられて来日。初舞台は一八七七年松林伯円の下、横浜清竹亭であった。三遊派に参加し、一八九一年快楽亭ブラックと称し、日本に帰化。各地の寄席で新作人情噺や落とし話を口演した。三遊亭円朝と競って西洋人情噺の翻案物を刊行した。一九〇三年、落語や浪曲をレコードに吹き込み、これが日本最初のレコードとなる。 一九八五年九月十九日」
日本が海外に向かって開かれていく明治維新の過程の中で、敢えて日本の芸人としてその魅力を伝える道を選んだ人が居たのですね。辞書でブラックを引くと父親のレディ・ブラックだけ出てきます。確かに新聞を発行した父親の方が優先されるのかもしれませんが、このブラックも載せる価値のある人なのではないでしょうか。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
今日はこの辺で失礼いたします。
〇デジタル図書で快楽亭ブラックの『孤児』や『剣の刃渡』『切なる罪』が見ることができます。字体や表現が明治のままなので若干読みにくいです。ご注意ください。
〇参考文献
『快楽亭ブラックの「ニッポン」―青い眼の落語家が見た「文明開化」の日本と日本人』佐々木みよ子、森岡ハインツ
『切なる罪』快楽亭ブラック