庭の隅からお送りいたします。④鵜について

庭の隅からお送りいたします。

4.鵜について

 

庭のすぐ横の川から水面を叩きつけるような音が数回鳴ったと思うと何かを水で洗うような大きな音が続いた。よくコイが跳ねるときに音が鳴るがそういったものとは少し違う様で連続的に緊迫感のある音が続いていたので気になって見てみるとカワウが大きなコイを追い回しているところであった。一筋縄ではいかないらしくカワウは逃げようとするコイをくちばしで掴んでは離し、隙を見てはつつき、相手の体力が尽きるのを待っているようだ。鯉も必死に尾を水面に叩きつけ水しぶきを上げ暴れまわっている。

それにしても大きい魚を狙ったなぁと半ば感心していた。コイの全長は黒鵜の首と同じくらいの長さで、黒幅に関しては鵜の首の太さに対しておよそ3倍もありそうだ。さすがに欲張りすぎたのではないだろうかと思う。

しばらくカワウとコイのつばぜり合いが続いたが、段々コイの分が悪くなったようで水面はコイの血で色づき始めた。跳ねる力も少し弱くなった。しかしこの大物をカワウは一体どうやって食べるのだろうと息を凝らして見守っているとその瞬間は突然やってきた。

カワウが水面に顔を突っ込んだと思うと、嘴が顔をはるかに超えるくらい大きく開いて鯉の頭をすっぽりと覆うと、そのまま顔を垂直に突き出した。上からコイの尻尾、胴体、カワウの顔、カワウの身体と一体化した姿は新鮮な光景だった。下手に動くとバランスを崩し大物を逃がすためか黒鵜はじっと上を向いたままじっとしている。魚が逃げようと尻尾を振るとかえって重力がかかって黒鵜の首の奥深くに入っていくため動く必要がないらしい。口の広がり方もすごかったが首の広がり方もすごく魚の大きさにまで余裕で広がってしまった。仕上げに首を少し動かしすべて喉に押し込むと顔を前に向けるとそのままゆっくりと飛んで行った。後には静かな水面だけが残り、僕は茫然としばらくそこを見つめていた。

 

それにしても鵜はどうしてあんなに大きな魚を飲み込むことができるのだろうか、実は鵜はペリカンに近い生き物なのだ。以前はペリカン目であったほど近い種である(現在は分類が細かくなりカツオドリ目に入っている。ペリカン目には現在ペリカン科、トキ科、サギ科、シュモクドリ科、ハシビロコウ科がいる。一方のカツオドリ目にはカツオドリ科、グンカンドリ科、ウ科、ヘビウ科が分類されている)。ペリカンと言えば嘴の下が大きく膨らんだイメージがある人も多いのではないだろうか。実はあの部分は喉袋という器官で何も入っていないときは縮んでおり非常にスマートな顔つきを見せてくれる。鵜にもこの喉袋があるため大きな魚を無理なく収納することができる。そこから腺胃で消化酵素を加え、筋胃であらかじめ飲み込んでいた砂や小石と一緒に魚を混ぜ込み分解を早める。筋胃はその名のとおり厚い筋肉に覆われており、胃自体を動かして咀嚼しているのだ。歯のない鳥類にとって食べたものを細かくするのはここにかかっている。とはいえ、いくら頑張っても骨やうろこなど消化しきれないものは粘性の高い液でまとめてペリットにして吐き出してしまう。

 

またびっくりさせると飲み込んだ魚を丸ごと吐いて逃げていく習性があり、これを応用した漁が鵜飼である。現存している鵜飼で使用されるのはカワウではなくウミウで、しかも野生のウミウを使用しているらしい。毎年やって来たウミウを捕まえ漁に利用しているとのこと。

この鵜飼、ルーツはかなり古いものらしく『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)にも鵜飼と思われる描写があり、群馬県にある保渡田八幡塚古墳からは鵜飼をモチーフにした埴輪まで発掘されていて、確かに首に縄をつけた鳥が魚を丸のみにしている様子がかたどられている(※1)。古墳のつくられた時期を考えれば5世紀後半から6世紀前半には既に鵜飼が存在していたと考えられる。

 

人の生活圏に密着し、埴輪や書籍と言った証拠によって文化的に存在していることが証明されている動物も珍しいのではないだろうか。古の時代から連綿と続いている文化は今も姿や形を変えて元の形を残していないかもしれないが、少なくとも鵜飼に関しては原体験に近いものが残っているようだ。そういう古代の生活に思いを馳せて見ると鵜飼も一層意味深いものになるのではないだろうか、いつか見てみたいものである。

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。

以上庭からお送りしました。

 

※1 岐阜長良川鵜飼の公式HP(保渡田八幡塚古墳出土の鵜飼埴輪の写真が掲載されている。)

https://www.ukai-gifucity.jp/Ukai/history.html

<ゼノンのパラドックス>で考える、完璧主義者はなぜ何もできなくなるか?

<ゼノンのパラドックス>で考える、完璧主義者はなぜ何もできなくなるか?

 

完璧主義。

すべてのことにおいて責任を感じ最善を尽くそうというその心構え。プロフェッショナルな仕事をこなすのであれば当然必要になるはずである。

しかしこの考え方は一歩使い方を間違えると、まったく身動きが取れないほどに足をとらえて離さないような一面がある。

 

あるマラソン選手が言っていた、どうしても辛くなったときは目の前の電柱を目標にして走り、それを突破出来たら次の電柱を目指して走る、その繰り返しをしているうちにいつのまにか自分でも驚くほど進んでいるものだと。

目標を小さく設定し、小さな達成感を積み重ねていく。

大きな目標はそれらをこなすうちに自然と可能な領域にまで近づいている。

私もこの考え方には納得がいく、ゴールの見えない目標はただただ苦しく、いつになれば終わるのかという絶望感が常につきまとうので必要以上にエネルギーを使ってしまう。

 

しかし完璧主義者の陥る落とし穴はまさにこの小さな目標にある。

いきなり大きな目標を掲げて叶わぬは人の道理である。たいして珍しいことではない。

しかし小さな目標を達成できない場合もある。

何をしたかと言えば小さな目標を完全に達成しようとしたときにこの問題が生じる。

 

ゼノンが唱えたアキレスと亀パラドックスをご存じだろうか?

俊足で有名なアキレスは鈍足な亀に一生追い付けないという一見すると不思議な話である。

なぜそのような話になるか。

それはアキレスが亀に追いつくためには亀の居る位置にたどり着く必要がある。しかし亀はゆっくりながら前進している。よってアキレスは亀の居た場所よりもわずかに後ろに来てしまう。以降この繰り返しが発生しアキレスは常に亀のわずか後ろに位置せざるを得ないという論理である。

これはアキレスが何としても亀に追いつくという行為を完璧にこなそうとするが故の失敗である。ようは亀を追い抜いてしまえばその前に追いついた瞬間があるわけである。それで満足すればいいのにも関わらず、このアキレスは完全な追いつくことを達成したいがゆえに遂に叶わない。

 

完璧主義者はまさにこのアキレスのようなもので、小さな目標に完全さを求めすぎるのである。先のマラソンを例に挙げればそれぞれの電柱の超え方にまたこだわりがあり、一本を超えるのにあれこれと思慮を巡らし、時には失敗すらするかもしれない。

大きな目標のための小さな目標ということを忘れてはいけないのである。

 

もしも小さな目標に囲まれ身動きが取れなくなったときは、そもそもの大きな目標を思い出さなくてはいけないだろう。

考えてみて大きな目標が無いことが分かれば、今度は一度立ち止まり大きな目標から立て直し方向転換をする方が良いかもしれない。

 

完璧主義者の強みは最後までこだわり通すことだが、それは最後の大きな目標に活かされなくてはいけない。

小さな目標に関しては失敗してもむしろそれを糧にして、大きな目標を達成するのだ!くらいの意気で進んでいくと完璧主義者は良い気がする。失敗を先に経験しておくことで最終目標での失敗する確率はぐんと下がる。

 

大きな目標に対する完璧主義者であれば、小さな目標は経験を積むための指標であり、この通過点で毎回完全さを発揮しようとする必要はないのである。

 

完璧主義者こそ大風呂敷を広げなくてはならない。

完璧主義者にはそれを最後はたたんでしまうほどのこだわりと集中力という才能があるのだからなおさらである。

 

アキレスは亀を見たら、追いつくのではなく追い越すことを大きな目標にしなくてはいけないのだ。いつの間にか追いついていたらしい、これくらいの図太さで丁度いい。

 

ここまで読んでいただきたありがとうございました。

科学的な人はホラーを楽しめるか?

科学的な人はホラーを楽しめるか?

 

書き捨て。

 

ある心霊ものの映像を見ていた。

曰く付きの部屋に住んでしまった主人公は数々の不可解な現象に遭遇していた。

自分以外誰もいないはずなのに視線を感じたり、足音が聞こえたりする。

洗面所で水が詰まり、奥を覗くと長い髪の毛がぎっしり……。そんなはずはない、主人公は短髪の男性なのだから。恐怖演出の連続に一般の視聴者はきっと恐怖感を感じているに違いない。

そう以下のようなことを考えてはいけない。しかし常日頃科学に従事している身としてどうしても気になってしまう……。

 

誰かに見られている気がするって?

それはひょっとしたら監視妄想かも、うつ病統合失調症で頻発する症状じゃないか。脳の誤作動だよ。よほどストレスに晒されているらしいな。ご愁傷様……。

 

さらに足音まで聞こえたって?

家鳴り?ネズミ?どうしても違うっていうのなら……、いよいよ幻聴まで出てきたってわけだ。ここまで来ると統合失調症の可能性が高くなってきたんじゃないか?ちなみに人の声とかは聞こえないのかい?

 

見知らぬ髪の毛の束だって?

まずは前の住居人が髪の長い人物ではなかったか確認をとろう。

その可能性が否定された場合は本当に髪の毛かどうか確認しよう、藻の一種とかそういう類かもしれないし。

万が一幽霊の髪の毛だったとしよう。もしそうなら僕は、それはもう興奮する!

幽霊が大好きと誤解されたくないので説明しておこう。説明を聞けばなぜ僕がこんなに期待を膨らましているかが分かるはずだから。

全くの無の状態から髪の毛が突然登場した。これは錬金術師も真っ青、質量保存の法則やエネルギー保存の法則を根底からひっくり返す現象かもしれないわけだ。

しかも、もしこの髪の毛に存在しないはずの人間のDNAなんて検出されてみたまえ、生命の自然発生説はパスツールによって否定されたがそれもここでもういちど議論しなおさなくてはいけなくなる。

まさにコペルニクス的転回!何としてもこの謎を解明しなくては!これが実用されれば食糧問題は解決したようなものだ!

 

 

……どうだろう、怖くなくなってきたのではないだろうか。

こう考えて見ると科学者とは素直に物事を楽しめない奴かもしれない。

 

もうひとつその手の話をしておこう。

あなたも『リング』シリーズを見たことがあるのではないだろうか?最近新作も出るようで日本のホラー映画の代表的存在になっている、黒い長い髪の貞子が出てくる、あれだ。

当時子どもだった私にとってブラウン管テレビとビデオは一時期恐怖の対象となった。

というか今の薄っぺらいテレビよりも、実際にだれか入れそうな分厚さのブラウン管テレビの方が子供心には、はるかに怖かったような気がする。

 

しかしそんな純粋な少年の心を失い、自然科学に毒され斜に構えるようになった私は以下の疑問がどうしても気になってしまい、素直にこわがれなくなってしまったのである。

あの幽霊がなんともリアリティがあるのはちょうどテレビの画面の大きさが人間一人くらいなら通り抜けられそうなくらいの大きさがあるからである。

ポータブルテレビの時はどうなるのだろうか?ドラえもんに出てくる4次元ポケットみたいに出てくるときは小さいけど、出きったら元のサイズなんだろうか?

それとも最初から最後まで小さいままなのだろうか?

はたまたつっかえてポータブルテレビからは出ることができないのだろうか?

 

もっと気になるのが劇場版みたいに大きな画面で写した場合、ガンダムみたいなでっかいのが出てくるのだろうか?それとも井戸から画面までの距離が長くなっていては知っても走ってもこちら側にたどり着けないという距離に換算されるのだろうか?

はたまた出てくるときは大きいけれど出た瞬間普通のサイズに縮む……?

 

ホラーを楽しむためにはまず恐怖をそのまま受け止めるだけのエチケットが必要なのである。野暮なことは言わず恐怖を満喫すればいい。

 

もう一言だけ、そういえばさっきの髪の毛の話こういう仮説の方が合理的かもしれない。

本物の髪の毛だとなった場合には誰かが君の部屋に侵入し毛を流しで処理したという可能性を考えた方が合理的だ。そして今日も明日もその誰かは主人公の留守を見計らい、毛を処理するために流しにやって来るのである。

あれ、なんだか幽霊なんかよりこっちの方が怖い……?

 

駄文失礼しました。

『儒教 怨念と復讐の宗教』を読んで思ったこと。

儒教 怨念と復讐の宗教』を読んで思ったこと。

 

孔子と言えばどういうイメージを抱くだろうか。

様々な解釈はあるが基本的には道徳心に篤い聖人と言ったイメージが強いのではないだろうか。井上靖の『孔子』や下村胡人の『論語物語』はどちらも名作だが、この前提はしっかりと残っていたように思われる。

さて学問には批判的な態度が必要であるとよく言われる物事を一面的にしか見れないと思ってもみないところで墓穴を掘ることもある。孔子聖人説に対して反旗を翻した本があって、なかなか面白かったので記録に残しておく。

 

タイトルからしてびっくりしてしまうのだが『儒教 怨念と復讐の宗教』である。著者の浅野裕一氏は、孔子を、政治的出世を目指す野心家の田舎者としてまず描き、最後まで政治家としての受命がなく失意の中で無くなった人物とした上で考察が進められる。

自分の才能を喧伝し売り込むも相手にされず、それどころか色々な人に馬鹿にされ、それでも諦めきれず放浪の旅を続け、最終的に故郷に帰って弟子の教育に努めるも、弟子ばかりが取り立てられ、遂に自分には声がかからない。

論語』の中に見え隠れする「人間孔子」の野心や不満、やっかみ、見栄を著者は紐解いていく。

 

相手が不徳の反逆者であろうと請われればこんなところで終われるか自分はこんなものじゃない腕の見せ所だと出て行こうとする。(該当箇所は記事の末尾に引用。番号で分けています①)

 

弟子が遅く帰って来て、理由を聞けば「政務でした」と答える。そんな弟子にいたわりではなく、つい嫉妬の気持ちが出て嫌味を言ってしまう。(②)

 

夏、殷、周の礼の専門家として招待された魯の大廟であれは何だ、これは何に使うのかと尋ね回ったため、「本当にあれが礼の専門家なのか」と訝しがられる。(③)

 

そして晩年になり、どうして自分が世間に認められないのかと嘆く(④)

 

そのどれもが聖人というよりも、同じ人間としての孔子の一面が鮮やかに現れてくる思いがした。『論語』という本の奥深さをより一層堪能するためにこの視座は非常に有効な気がする。とは言えこれだけを読んで「孔子はとるに足らず」というのも危険な気がしていて、むしろ「聖人孔子」のイメージをしっかりと持っている人が読んだ方が楽しめるのではないか。もしこれが初めての『論語』関連の本である場合は、『論語』そのものや小説でもいいので優れた師としての孔子を見て欲しい気持ちになる。一つの考え方に縛られず複数の角度から物事を見る方が気づくことも多いはず。

 

この本ではさらに残された弟子たちの何百年にもわたる仇討ちの経緯が語られる。

孔子がなくなり二つの情念が生じたとし、それが「孔子の偉大な徳を受け入れようとせず、落魄の死へと追いやった歴史的現実への復讐心」と「失意の中に世を去った孔子の魂を救済せんとする精神」であったとした上で後世の儒家の苦闘が幕を開ける。

 

孔子は聖人であると証明するために、あらゆる手段が講じられる。

孔子は無冠ながら社会の法則をつくったという点で天かに君臨する王であったと主張する『中庸』。聖人は王となるべきであり、当然孔子は新王朝の王になるはずだったが、上天はそれを良しとしなかった、今こそ孔子の理想を叶えるときと息巻く『孟子』。聖人としての証拠をそろえるため、孔子が書いたという触れ込みで作られる偽書の数々(『春秋』『孝経』緯書など)、政治と結託し孔子を聖王や皇帝にしようとする運動、流行りの仏教や道教のエッセンスを取り入れながら孔子の教えを聖王の教えより上に持っていこうとする朱子学……。

 

こうした絶え間のない努力によって以下のように歴史認識が変わった。

以前      上天―古代先王―経書―皇帝―官僚―万民

朱子学の時代  上天―孔子―四書―五経―君主(皇帝)―官僚―万民

 

古代先王(尭、瞬、禹、湯、文、武)の教えを五経(易経詩経書経礼記、春秋)によって学んで治世の規範を求める時代から、聖王としての孔子の教えを四書(論語孟子、大学、中庸)から学ぶことが優先されるようになった。孔子儒家の積年の願いは達成されたのだ。

とは言え提唱した当初は古の聖王を蔑ろにすることに反発も大きく、朱子自身囂々たる非難の最中死んでいる。

一回の大工の息子であったイエスダビデ王の子孫にして、救世主、王なのだと主張し、遂に認めさせ国教となったキリスト教に匹敵する成功だと筆者はいうのである。

 

儒教は孝悌や徳治の宗教だと思っていたが、この歴史を見る限り孔子教とでも言いたくなるようなエネルギーを感じる。人間の歴史や宗教はどう形成されていくかを見る上でも非常に興味深い経過に思える。また孔子はこの展開をもし知ったとして、「よくやった」と喜ぶのか「私の教えたことはそういうことじゃない」と嫌がるのか、などと色々な想像をしてしまう。

 

大きな歴史のうねりの中で儒教が、孔子の立場がどのような変遷を辿っていったのかはこの本で初めてしっかりと見たので興味深かった。とはいえすべての視点が「儒教ルサンチマン」の軸で捉えられており、別の見方もあると思うのでそれも確認したいところではある。

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。

 

 

本内容で扱った『論語』の内容に関して、

本文部分は読み仮名を()に入れた形で加えた。

解説は参考文献をもとに自分の考えも踏まえた上で作成した。

 

①佛肸(ふっきつ)招く。子は往かんと欲す。子路曰く、昔者(むかし)由は諸を(これ)夫子(ふうし)に聞けり。曰く、親(みずか)ら其の身に不善を成す者は、君子は入らずと。佛肸は中牟(ちゅうぼう)を以て畔(そむ)けり。子の往かんとするは之れ如何。子曰く、然れども是の言有るなり。曰く、堅しと曰わざらんや、磨けども磷(すりへ)らず。白しと曰わざらんや、涅(どろぬ)れども緇(くろ)まず。吾豈に匏瓜(ほうか)ならんや。焉(いずく)んぞ能く繋がれて食らわざらん。(『論語』陽貨篇)

 

中原の大国・晋に反乱を起こした佛肸の招きに応じようとする孔子とそれを留める弟子の子路孔子は行く気があるが、子路は「先生に不善を働くような者のところには君子は出入りしないと教えていただきました」と引き留める。孔子は「私は志操堅固で、清廉潔白だから、悪には染まらない。苦瓜じゃあるまいし、いつまでもつるにぶら下がったままで、誰にも食われないなんて、もう御免だよ」と答える。

 

②冉子(ぜんし)朝より退く。子曰く、何ぞ晏(おそ)きや。対えて曰く、政有り。子曰く、其れ事ならん。如(も)し政有らば、吾を以(もち)いずと雖(いえど)も、吾其れ与(あずか)りて之を聞かん。(『論語子路篇)

 

弟子のひとりである冉子が遅く帰ってきた際には、孔子は「どうして遅くなったのか」と尋ね、冉子は「政務で遅くなりました。」と答えると「政務と言うがそれは嘘で、お前がしていたのは、どうせただの事務仕事に決まっとる。本当に重要な政務があったのなら、いくら朝廷がわしを登用しないからといっても、必ず一言ぐらいは相談があるはずだからな。わしは何も聞いとらんぞ。」と返している。

 

③子大廟に入りて、事ごとに問う。或るひと曰く、孰(たれ)か鄹人(すうひと)の子を礼を知ると謂うや。大廟に入りて事ごとに問う。子之を聞きて曰く、是礼なり。(『論語』八佾篇)

 

国祖・周公旦を祭る魯の大廟に礼の専門家として入った孔子は、いちいち「あれは何か」「これはどう使うのか」と聞きまわっている。「誰があの田舎者を専門家と呼んだのか」と言われると、孔子は「知ってても知らんふりで訊ねるのがあなた、礼儀というもんですよ」と答えた。本当に知らなかったため、苦しい言い訳をしたようにも見える。

 

④子曰く、道行われず。桴に乗りて海に浮かばん。我に従う者は、其れ由か。(『論語』公冶長篇)

 

夢も叶わず自暴自棄になる孔子。他にももう何も言わないと拗ねている様子(『論語』陽貨篇)や自らの衰えに嘆息している姿(『論語』述而篇)も記録されており、人間味あふれる姿を垣間見ることができる。

 

Amazon

https://www.amazon.co.jp/dp/B075XHT51B/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1

新聞をどのようにして読むべきかを考える_後篇

新聞をどのようにして読むべきかを考える_後篇

 

前回の記事の続きです。前回はこちら……

新聞をどのようにして読むべきかを考える_前篇 - 知識のバラバラ

 

前回は池上彰氏、佐藤優氏の新聞の読み方を紹介し、その上で速く読む方法として文字を全部読むのではなく、見出しとリードから重要性を判断し読むものと読まないものを区別する。そして整理にはなるべく時間をかけない。ということを紹介した。

また効率的に知識を吸収するためには最低でも論調の異なる新聞を2紙読むのが良いということを書き、ものぐさな僕は『新聞ジャーナル』が手っ取り早いと紹介を加えた。

 

今回はもうひとつの秘訣を「第5章 僕らの教科書・学習参考書の使い方」から見ていく。

内容を少し抜き書きする。

池上「いくら書籍をたくさん読んでも、その分野の「基礎知識」がすっぽり抜け落ちていると、うまく知識が積み上がっていきません。」

佐藤「義務教育レベルの基礎知識に欠損があると、いくら新聞や雑誌、ネットニュースを見てもその内容を「理解する」ことができません。」

池上「しっかりした土台の上に積み重ねてこそ「情報」は「知識」となり、それを繰り返すことで「使える知識」「教養」になる。」

とした上で、教科書は次世代を担う若者が知っておかなければならない知識や思考法が詰め込まれたものであると言い、特に政治や経済のニュースは中学生の「公民」の教科書レベルをマスターしていれば十分理解できるのだそうだ。そういった教科書の中でも「公民」「歴史」「国語」「英語」が読んでおきたい科目として挙げられている。海外の新聞に目を通さなければ英語はいらないとして、歴史は高校教科書の「世界史A」「日本史A」がコンパクトに通史を押さえられるので読んでおきたいとしている。

 

おそらくこの二人は基礎的な知識が固まっているので、広いジャンルの情報をひっかかることなく理解できるのだと思う。これがスピードの秘訣だと僕は考えている。

 

例えば2019年5月23日の『朝日新聞』1面の記事を見てみよう。

 

廃炉、「特定技能」外国人就労見送り 東電「当面の間」

東京電力ホールディングス(HD)は22日、福島第一原発廃炉作業に、「特定技能」の在留資格を持つ外国人労働者を当面受け入れないと発表した。人手不足を背景にいったんは受け入れを決めたが、21日に厚生労働省から「極めて慎重な検討」(根本匠厚労相)を求める通達を受け、方針を転換した形だ。

 

ここまでが見出しとリードにあたる。1面に出たわけだから重要なのは間違いない。しかしこの記事は理解しようとすると意外に難しい。そもそも「特定技能」とは何だろうか?普通の在留資格とは何が違うのだろうか?なぜ廃炉作業だけがクローズアップされているのだろうか?厚生労働省とはどういう組織なのか?

そんな疑問を抱えたままでは「記事とリードで判断する」場合、分からないと読まないですましてしまいたくなる。

 

それで政治経済の教科書は何と書いてあるのか?

まず『詳説 政治・経済研究』(2010)には、

「日本は、外国人の「移住は認めない」「単純労働者の受け入れは認めない」の原則の下、「移住労働者」を否定してきた。」とし「多くの移住労働者予備軍が観光ビザで入国し、入管法上「不法就労者」となり、摘発をおそれて過酷な労働条件下で働いている。」現状があり、人権を無視しているといった日本への批判もあるということが書かれている。

 

また厚生労働省のHP、

「日本で就労する外国人のカテゴリー(総数 約146.0万人の内訳)」

https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/koyou/gaikokujin/gaikokujin16/category_j.html

では、①就労目的で在留が認められた者(いわゆる専門的・技術的分野の在留資格。約27.7万人)、②身分に基づき在留する者(日系人、永住者、日本人の配偶者。約49.6万人)、③技能実習生(技術移転を通じた国際協力。約30.8万人)、④特定活動(EPAに基づく決定で認められた者。約3.6万人)、⑤資格外活動(留学生のアルバイト等。週に28時間以内。34.4万人)に区分されている。

 

次に2019年2月発行の『速攻の時事』によれば、

2019年4月から、改正出入国管理及び難民認定法等が施行。一定の専門性・技能を持つ外国人のための在留資格「特定技能1号」と熟練者向けの「特定技能2号」を新設。「1号」の在留期間は5年で家族は連れてこれない。「2号」は更新可能で、家族も連れてこれる。政府は5年で最大約34万人の新規受け入れを想定しているとある。受け入れ業種は「生産性の向上や国内人材確保のための取り組みを行ってもその分野の存続に外国人が必要な分野」として介護、建設、宿泊、農業、外食など14業種。

 

ちなみに厚生労働省は『山川 現代社会用語集』で「社会福祉をはじめ、社会保障や公衆衛生の確保・向上、雇用対策などを任務とする国の行政機関」とある。

 

情報を集めても分かりにくい……。

 

ざっくり言うと、

今まで日本は海外の人が自由にやって来て働くということに関して、政府はとても慎重だった。厚労省の分類では自由に職を選べるのは②「身分に基づき在留する者」に該当する人だけで、他は特定の職業にしかつけなかったり、時間制限が設けられていたりで自由度が低かった。それでも日本で働きたい外国人は多いし、日本から見ても少子高齢化などが原因で減少する労働力を確保したい、企業から見れば海外の安い労働力は魅力的という考えがあり外国人に日本で働いてもらおうという流れができていた。そこで政府はある程度選択の幅がある新しい枠を用意して海外の人に働きに来てもらおうと考える。これが「特定技能」。特定技能には「建設」や「介護」「食品」など14の分野があり、専門の試験を合格すれば認められる。

今までより選択の幅が広いし、2号を取得することで長期間の労働や家族と暮すことも可能になった。しかし外国人労働者をむやみに入れると日本人と仕事の奪い合いになってしまう。政府はそれをさけるため日本人の労働者を優先した上でそれでも人手不足の場合に限って適用するとしている。そして問題になったのが「建設」のカテゴリーに福島原発廃炉作業は入るのかどうかということだった。

 

こうした知識があるのとないのとでは理解にかかる時間に雲泥の差がある。知識を先に知っていた人は記事を見た時点で赤文字部分の理解になるのだが、何も知らないまま青文字の知識を調べないでいるとわかったような気で終わってしまう。

新聞を読むのが早い人はおそらくこういう基礎知識を蓄積しており、一々確認せずとも記事を見れば「わかる」という状態で臨んでいるものと思われる。ここである程度理解しておくと次にまた不法就労者や、特定技能の問題が出れば容易に理解ができる。知っていなくとも大体どこを調べれば欲しい情報が出てくるのかという経験値も理解能力に差を生んでいると思う。

とは言え全部の記事を細かく見ることは難しいので一面に載っている記事とどうしても気になる記事だけは調べるようにして、他は中学・高校程度の知識を身に着けることをやっておけば良いのではないだろうか。

 

以下本文、

 東電HDは22日、通達を踏まえた検討結果を厚労省に報告した。発表によると、日本語や日本の労働習慣に不慣れだったり、放射線の専門知識がなかったりする外国人労働者が現場で働けば労災事故や健康障害が発生する恐れがあり、「極めて慎重に検討する必要がある」と表明。安全管理体制の検討に相当の時間を要するとして、当面の間は就労させないことにしたという。

 ただ、福島市で会見した東電福島復興本社の担当者は「この先ずっと就労させないと言い切っているものではない。検討して改善したうえでの就労はありえる」と語り、将来の受け入れはありうるとの認識を示した。

 当面の受け入れ見送りについて、東電は協力企業にも従ってもらう方針で、23日に約50社が参加する協議会の場でも説明するという。

 特定技能は、外国人労働者の受け入れ拡大のため、今年4月から始まった新たな在留資格。建設業が受け入れ対象業種になったことで東電は3月、福島第一原発の現場に受け入れる方針を協力企業などに伝えた。

 だが、事故の影響で福島第一原発の構内にはなお放射線量の高い区域が残る。在留期間が最長5年の外国人労働者が帰国後も被曝(ひばく)線量などのチェックを受けられるのかと、問題視する声が上がっていた。

 外国人労働者を支援する「移住者と連帯する全国ネットワーク」代表理事の鳥井一平氏は「被曝労働による職業病はすぐに発症するわけではなく、何年も後になって発症することがある。厚労省の対応は当然だ」と話した。(石塚広志)

 

 

長々と書いてきたが、基礎知識を身に着けることが遠回りのようで実は近道だということが言えそうだ。

 

ここまで読んでいいただきありがとうございました。

庭の隅からお送りいたします。③タカラダニ大量発生中

庭の隅からお送りいたします。

3.タカラダニ大量発生中

                                                                                                    

夏に近づき暑さも増してくるとコンクリートの上を無数に動く赤い点が見える。大きさは1mm~3mmほど、よく目を凝らしてみるとちゃんと脚も生えている。脚の数は左右4本ずつで8本。たまにクモの子どもと間違えられるがこれはれっきとしたダニの一種でタカラダニだ。顕微鏡で観察すると体の表面に細かい毛が生えているのが観察できる。

 

ダニと聞くと噛んだりしないかと不安になるが、このダニの仲間は大きな動物には興味がないらしくあてもなく歩き回っては、もっぱら昆虫や花粉を食べるのに専念するそうだ。そういう意味では益虫に違いないのだが、大量に発生し恐怖心を煽るためか不快害虫として名が知れている。

 

さてそんなダニなのだが一体どういう風の吹き回しでタカラダニの名前がついたのだろうか?その命名の由来はタカラダニの幼虫時代に秘密がある。タカラダニの幼虫も真っ赤な色をしているが、その生態は寄生であり特定の虫にくっついて栄養を吸うことで生活している。彼らは赤色の紡錘形をしており、それをくっつけた虫がまるで宝(おそらく宝石のこと)を身に着けているように見えたということらしい。くっつかれて栄養を奪われている虫からすればお宝どころかお荷物なのだが、傍から見ている人間は暢気なものである。

 

日本で害虫としてコンクリートの上を歩いているタカラダニは、カベアナタカラダニという種類らしい。「壁の穴に棲む」から、そんな名前がついたのだろうと思っていたらそうではなく「壁に棲むアナアカダニ」であるらしく、このアナがさすのは目の後ろに開いている穴だそうだ。カベアナタカラダニは寄生をせず幼虫の頃から歩き回って餌を見つけるという、食べるものは確認されている限りで花粉やアブラムシなどの小昆虫を食べており、この種も人間に害はないとのこと。興味深いのは歩いているのがすべてメスらしく、オスが見当たらないことで単為生殖によって子孫を増やしていると考えられている。とは言えオス自体が存在しないで卵からも一匹たりとも孵らないのか、孵ってはいるが生殖をしたらすぐ死んでしまうのか、はたまたオスは壁の隙間から出てこない引っ込み思案なのか詳しいことは分かっていないらしい。。

 

カベアナタカラダニはコンクリートの上を漫然と散歩をして時間を潰しているように見えるが、実はそうではなくコンクリートの表面についている花粉をいそいそと採っているらしい。ちなみにカタツムリがコンクリートの上を這っている姿を見ることがあるがあれはコンクリートに含まれるミネラルを吸い上げているとのこと。何の変哲もないコンクリートが生物ごとにまったく違う重要な意味を与えられているのを思うと不思議な気分になる。

 

日本では5月下旬にタカラダニの成虫が最も多くなる。コンクリートを這っている姿を見ると、春もそろそろおわるんだなぁという感覚を思い起こさせるため、季節の風物詩のような存在になっている。害虫扱いされていると言っても実害はないので適度な距離を保ちながら付き合っていくのでいいかなと思っている。

 

余談だがカベアナタカラダニを変換しようとしたら「壁あなた身体に」という何ともミステリアスな言葉になり思わずにやけてしまった。

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。

以上庭からお送りしました。

 

参考サイト

カベアナタカラダニの生態と防除

http://www.pestcontrol-tokyo.jp/img/pub/070r/070-03.pdf

 

東京都健康安全研究センター 研究年報 第60号(2009) 和文要旨

http://www.tokyo-eiken.go.jp/assets/issue/journal/2009/abs-4.html

 

ダニマニア宣言 やっぱりダニが好き! 第2話 ダニとたわむれる夢をみた

https://kagakubar.com/mania/02.html

今後の方針についていくつか……

今後の方針についていくつか……

 

基本的に僕は好んで文章を誰かに向けて書いたり、誰かに向かって話したりするような情報発信をするような人間ではない。そもそも自分に自信がないのもあるし、情報は発信すれば誤解される。どうせ誤解されるのならば最初から黙っていた方がましなのではと言う風に考えたりもするからだ。しかし、その思想を貫徹しようとすると社会で生きるのが難しくなるということが実体験を踏まえてよく分かった。

私は基本物静かにしている。理由は人に迷惑をかけまいと思うのが一つ、誰かと話して誤解を与えることが怖いのが一つ。それで必要最低限の会話に終始し、誰も傷つけぬよう、誤解を与えぬようにしていこうと思っていた。「沈黙は金、雄弁は銀」という言葉もある。ところが、同僚に「君は人を馬鹿にして見下していると周りから思われている」と教えてもらいショックを受けたことがある。黙って作業をし会話もおざなり交友関係も狭く、積極的に人を避け、暇さえあれば本を読んでいる。「お前らとは違うのだ、近寄るな」という考えを持っていると誤解を生じさせていたというのだ。

何事も経験せねば分からないものだが、誤解されないように生きようとし努力をしてもどうしても誤解されるものらしい。というのも誤解の原因は私にだけあるのではなく、あくまで他者との関係の上に成り立っているだという、実にあたり前な答えが目の前に転がり出たのであった。

ニーチェなどは誤解を恐れるなと言い、自身の思想を舌鋒鋭く書いて世に広めた。彼の思想なんかは見方次第で「強い者が勝つべき」とか「善い生き方や道徳は弱者の作り上げた幻想だ」とか、「結局のところ人間は知性が本質ではない」とか人間の考えていた当時の常識に対して、そういう基本的な嘘であるとして土台を崩すことに終始していたが、結局『力への意志』は妹によって歪められニーチェはナチ思想に与していると考えられ、一方で「宗教や道徳が幻想だとして、我々はどのようにして個人、集団として生きていくべきなのか」といった意味合いでとって哲学を発展させた人たちもいた。結局、現象学実存主義精神分析にもその影響はあったと思う。

結局のところ、どんなに考えていても自分の考えがあっているかどうかは外に出してみないと分からないわけで、かと言って言わなければリスクも最小限なわけで、こう悶々とひたすら「社会にもっと出て自信を試すべき」という考えと「何としても傷つきたくない」というアンビヴァレントな発想が私の脳内で論争をしている。

そもそも文章技術も知識もあんまりないわけだし、間違ったこと言って人に迷惑かけたら大変だし、誰も見ないから安心……って言われても、それはそれで悲しくて心が折れそうだし……、だけどこのまま何もせず後悔したりしないのか…。

そして今や一つの結論に達した、「悩む時間が一番もったいない!」

もちろん思索や諦めずに粘り強く考えるというのは大事なことなのだが、この手の逡巡は結局どれだけ時間をかけても堂々巡りで埒が明かない。「やるならやる、やらないならやらない」で決めて行くしかない。やらないならきっぱりと諦め、後ろ髪をひかれる思いはすっぱりと断ち切るべきだし、やるのなら最初からうまく行くはずがないんだから失敗を恐れずに活発に動くべきである。

孔子も「吾嘗て終日食らわず、終夜寝ねず、以て思うも益なし。学ぶに如かざるなり」と言っているし、「学ぶ」という行為をより良い質にするにはインプットに加えアウトプットが必要になるだろう。これに関しては「知行合一」の考えを採用するべきだと思っている。「情報を覚えただけでは理解したとは言えない、使えて初めて理解したと言えるのだ」という王陽明の言葉は、あたまでっかちで動きの少ない私には耳に痛い箴言である。

 

今までもブログを書いてみたが、本当にこんな感じで良いのか?やっぱりやめた方が良いのではないかという躊躇いが脳裏をかすめて、尻切れトンボになる記事も多かった。その原因に臆病な気持ちがあるのは否めないだろう。

そういうことで私は積極的に行動することにした。そして大いに失敗することにした。なに、まさかブログで命を落とすことはあるまい。

誰も見ないならそれはそれで好き放題ができて面白い。しかし価値のある情報を発信できるのかはさっぱり自信がない。色々と試してみてフィードバックを繰り返すしかないだろう。こういう挑戦する、自由にやってみるという経験が私には足りないのだから。むしろ伸びしろがあると根拠のない自身を持ってみるのもいいかもしれない。

 

これをこれからの抱負として書き記しておく。