現代だから読みたい『福翁自伝』 人はなぜ勉強するのか?に対する一つの理想。

現代だから読みたい『福翁自伝』 人はなぜ勉強するのか?

 

人はなぜ勉強するのでしょう?

 

 日本紙幣の人物が変わったのが2004年だからもう14年も経過したことになります。

千円札は夏目漱石から野口英雄へ、五千円札は新渡戸稲造から樋口一葉へ、1万円札と言えば福沢諭吉がそのまま、どかりと座り込んだままでした。

今日はこの福沢諭吉が老年に自身の半生を記した『福翁自伝』から、人はなぜ勉強をするのか?という質問に対し、その理想的な回答のひとつを紹介させていただきます。

しかし、ひょっとしたら新元号が来るとこの絵柄も変更になるかもしれませんね……。

 

福沢諭吉って誰?

福沢諭吉(1834-1901)は幕末から明治にかけて活躍した洋学者、啓蒙家です。

緒方洪庵の私塾である適々斎塾でオランダ語を習得、英語を独学し生涯で3回渡米しています。明治維新にあたって自身の蘭学塾を芝新銭座(しばしんせんざ)に移しますが、この時に塾名を慶應義塾とします。現在の慶應義塾大学です。

著作は多く『福翁自伝』の他にも、「人は人の上に人を作らず」で有名な『学問のすすめ』、自身の経験を踏まえ海外の事情を述べた『西洋事情』、日本を文明国にするため海外の文明を解説する『文明論之概略』などがあります。

啓蒙家と言われるように日本に自由主義や資本主義などの西洋文明を積極的に紹介・奨励しました。

 

福翁自伝』ってどういう作品

比較的わかりやすい文章でところどころにユーモアが混じる文体が特徴です。

1889年に刊行された自伝で少年時代、長崎修業時代、適々斎塾時代、3回の洋行、維新時代などが詳しく語られます。

福沢諭吉という人物を知るにはもちろん、当時の時代の風景や雰囲気などを存分に楽しめる作品になっています。

勝海舟が船酔いで参っているシーンとか、庭でアンモニウムを生成してあまりの臭いに周りから非難を受けた話、さらにそれならと小舟を借りて洋上で実験を続行したくだりなど普通に読み物としても面白い作品です。

 

人はなぜ勉強するのか?

今回ご紹介するのはこの作品の中盤あたりに登場する「蘭学修業」「緒方の塾風」という章を取り上げたいと思います。ここがちょうど適々斎塾時代にあたるわけです。

面白いエピソードいくつか挙げてみたいと思います。

 

〇築城所を移す

奥平壱岐という中津藩家老のもとに挨拶に行ったところから話が始まります。福沢諭吉藩士ですからご機嫌をうかがわねばいけません。

その奥平壱岐は福沢の前に一冊のオランダ語で書かれた本を見せます。

彼が言うには「この本は乃公(おれ)が長崎から持て来た和蘭(オランダ)新版の築城書である」、「この原書は安く買うた。二十三両で買えたから」と言い放ちます。

ちなみに作中に福沢家の借金四十両を工面するために家中の書物や家財を売り払ってやっとのことで集めたとあるので大変豪勢な買い物であったことがわかります。

何としても見たいと思った福沢は「成程是れは結構な原書で御在ます。迚も之を読で仕舞うと云うことは急なことではできません。四,五日拝借は叶いますまいか」と嘆願し貸してもらいます。しかし彼には腹案がありました。

大胆にもこの200ページはあろうかという原書をそっくりそのまま写してしまおうというのです。昼夜問わず全力で写す。しかも家老の本を勝手に移したというのがばれるとよくないからこっそりと行います。実際には20日から30日かかっていたようなので、怒られないか?返せと言ってこないかと心配をしていたようです。

何事もなかったかのように奥平壱岐にお礼を言って返し「原書の主人に毛頭疑うような顔色もなく、マンマとその宝物の正味を偸み取て私の物にしたのは、悪漢が宝蔵に忍び入たようだ」と述懐しています。

 

〇枕がない

福沢は風邪をこじらせ熱が出ます。病気の際は座布団をしばって簡易的に枕にしていたそうですが、回復し久々に普通の枕で寝たいと思ったが、どこを探してもないそうなんですね。

「不図(ふと)思付いた。是まで倉屋敷に一年ばかり居たが遂ぞ枕をしたことがない、と云うのは時は何時でも構わぬ、殆んど昼夜の区別はない、日が暮れたからと云て寝ようとも思わず頻りに書を読んで居る。読書に草臥(くたび)れ眠くなって来れば、机の上に突臥(つっぷ)して眠るか、或は床の間の床側(とこふち)を枕にして眠るか、遂ぞ本当に蒲団を敷いて夜具を掛けて枕をして寝るなどゝ云うことは只の一度もしたことがない。」

適々斎塾で勉強している人たちはたいていそんな感じだったと言っています。

 

〇自分は蘭語をやって何になるか

さて福沢はじめ緒方の塾生はどうしてこんなにも集中力をもって勉強に望めていたのでしょうか?

福沢は緒方の書生時代を振り返りこう言います。

「然しからば何の為ために苦学するかと云えば一寸と説明はない。前途自分の身体は如何なるであろうかと考えた事もなければ、名を求める気もない。名を求めぬどころか、蘭学書生と云えば世間に悪く云われるばかりで、既に已に焼けに成て居る。唯昼夜苦しんで六かしい原書を読んで面白がって居るようなもので実に訳の分らぬ身の有様とは申しながら、一歩を進めて当時の書生の心の底を叩いて見れば、自から楽しみがある。之を一言すれば――西洋日進の書を読むことは日本国中の人に出来ない事だ、自分達の仲間に限かぎって斯様(こんな)事が出来る、貧乏をしても難渋をしても、粗衣粗食、一見看る影もない貧書生でありながら、智力思想の活溌高尚なることは王侯貴人も眼下に見下すと云う気位(きぐらい)で、唯六かしければ面白い、苦中有楽、苦即楽と云いう境遇であったと思われる。喩えばこの薬は何に利くか知らぬけれども、自分達より外にこんな苦い薬を能く呑む者はなかろうと云う見識で、病の在る所も問わずに唯苦ければもっと呑で遣ると云う位の血気であったに違いはない。」

ともかく面白くてたまらない、だからやるんだという気持ちがにじみ出ています。

身分や地位、外見そんなことは一切気にかけず、目の前にある学問に没頭していたようです。

 

「兎に角に当時緒方の書生は十中の七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的がなかったのが却って仕合せで、江戸の書生よりも能く勉強が出来たのであろう。」

そして老いた福沢が若い学生を見て

「今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行先ばかり考えて居るようでは、修業は出来なかろうと思う。」と心配をしています。

とは言え「只(ただ)迂闊(うかつ)に本ばかり見て居るのは最も宜よろしくない」と行動家らしい一言も。

好きだからやる、そして後からその知識を社会に対して存分にふるう。

昨今の勉強事情はともかく目的ありきですが、息の詰まる思いがしなくもありません。

好きな勉強をやって、最終的にそれをどう使うか改めて考える。こういう勉強というのもいいのではないでしょうか。

 

読んでいただきありがとうございました。

 

参考文献

福翁自伝福沢諭吉岩波書店

https://www.amazon.co.jp/新訂-福翁自伝-岩波文庫-福沢-諭吉-ebook/dp/B00QT9X8FA/ref=dp_kinw_strp_1

 

『最終講義 生き延びるための七講』内田樹文藝春秋

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※『福翁自伝』を読み返すきっかけになった本です。おすすめです。

現代だから読みたい『老子』のすすめ

世の中の価値観に疑問を持っている方、

老子』を読んで見ませんか?

 

諸子百家の思想の中でひときわ異彩を放つのは『老子』ではないかと思っています。

大げさに言ってみましたが単に私が一番惹かれているだけかもしれません。

 

私は特に専門的な知識があるわけでもないのですが、現代にどのようにこの思想を生かせるのかについて少し意見を言わせてもらえればとこの文章を書くことにしました。

論語読みの論語知らず」と言う言葉がある通り、この『老子』を単なる古典、古臭い時代遅れの書物にするのはあまりにも惜しいと思うからです。

勢いで書いている部分もあるので極力注意を払うが間違いがあるかもしれません、その際は注意していただければ幸いです。

 

●そもそも『老子』とは何か

作者ですが、『史記』によれば老子の候補は3人おり、その中でも有力と言われるのが楚の苦県(こけん)の老耼(ろうたん)とされています。

彼は周の図書や公文書を保管する部署の官僚でしたが、周の衰えるのを見て出ていき、その道中にある関所で尹喜(いんき)に請われて記したのが『老子』。

孔子の教えを守る儒家への批判が多く見られ、世界の大本を「道」と仮に名付け、その思想に基づいて人間はどう生きるべきかを考えるような内容になっています。

 

●「道」とは何か?

老子』の思想の根本概念にあたるものが「道」です。

42章には「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負い陽を抱き、沖気以て和を為す。」とあります。

40章に「天下の物は有より生じ、有は無より生ず」というものがありますから、

 

①無=道 → ②有=一 → ③陰と陽=二 → ④陰と陽の混合=三 → ⑤万物

 

という図式になります。

無から有が出てくるのはなかなか妙な感じがしますよね。

無いはずなのにどうして有るという状態が発生するでしょうか。

これは宇宙空間における真空のように、あるべきものが無い状態ではなく、むしろすべてが混然一体となって区別がつかない状態に近いみたいです。まだ何物にもなれない何かが敷き詰まっていながら動かない状態です①。

有になって初めて存在となりますが、すべての可能性を含んだ状態であり、これも概念上の存在になると思います②。

陰と陽に至って初めて地上で認識できる形になります。これは対の概念で、「天と地」や「男と女」といった正反対の物が生じたことを示します③。

陰と陽はそれぞれ微妙なグラデーションで交じり合うことで④、世界にあらゆる万物を生み出していきます⑤。

と、こんな感じでしょうか。

「道」とはこの世界を作り出す根本になったものになります。

しかし、25章に天地を生み出した世界の母ともいうべきものに触れますが、「吾れ、其の名を知らず、之に字して道と曰い、強いて之が名を為して大と曰う。」とある通り、「何と呼べばいいか分からないから、字を道として、名を大とあえて読んでみ」ただけのようなので、道でなくても良かったのかもしれません。

 

●『老子』の魅力とは

さて基本的な概念は紹介しましたので、老子の人生の流儀を見ていきたいと思います。

全体を通して老子が訴えかけてくる言葉は「本質を見失うな」ということに尽きると思います。

老子が書かれた時代はまさに儒家、つまり孔子の弟子たちが政治を牛耳っていた時代です。彼らは『論語』にあるようにきっちりとした上下関係を設定し、礼儀をもってその構造を維持することに苦心していました。そういう意味では諸子百家政治学・組織学と言ってもいいかもしれません。

老子は言います。

「世の中の人々は、みな美しいものは美しいと思っているが、じつはそれは醜いものにほかならない。みな善いものは善いものと思っているが、じつはそれはよくないものにほかならない。」

皆がものに価値の上下をつけますが、それは不確かで変わりやすいものだというわけですね。ある時人気だったものが、いつの間にか見向きもされないなんてことはざらにあることです。

 

「そこで、有ると無いとは相手があってこそ生まれ、難しいと易しいとは相手があってこそ成り立ち、長いと短いとは相手があってこそ形となり、高いと低いとは相手があってこそ現われ、音階と旋律とは相手があってこそ調和し、前と後とは相手があってこそ並びあう。」

と続きます。あらゆる価値観は何かとの比較の上でしか成立しないということです。

 

「そういうわけで、聖人は無為の立場に身を置き、言葉によらない教化を行う。万物の自在にまかせて作為を加えず、万物を生育しても所有はせず、恩沢を施しても見返りは求めず、万物の活動を成就させても、その功績に安住はしない。そもそも、安住しないから、その功績はなくならない。」

以上2章でした。

 

聖人とは理想の人物くらいの意味です。

聖人はそういう表面的な価値観にとらわれず、優劣を述べずに感化する。

長かろうが短かろうが高かろうが低かろうが優劣などはつけず、

特徴を伸ばしたとしても自分のものとはせず、

相手のために行動しても見返りは求めず、

その特徴を最大限に引き出しても、

その功績にこだわらない。

こだわらないのだから後々なくなる心配もない。

とさらりと言ってしまいます。

 

世の中には様々な価値観があります。

しかしそのどれもが絶対的に正しいわけではなく、相対的なものに過ぎないのです。

良いとか悪いとか、そんなものは本当は存在しない。あくまで人間がこしらえたものなんですよね。

当時、儒家の整備した政治システムによって人間に上下の区別ができました。

そして上の人に対する礼儀がやかましく言われ、家族仲良くするようにとせっつかれ、国家のために忠臣になれと次々に価値観が作られ、人民ががんじがらめになっていく時代であったようです(18章)。

 

そんなに背伸びして無理に良い人ぶるのはやめよう。

道から生ずる本来の人間としての姿から離れて暮らすことはやめよう。

誰かの価値観に合わせ道を外れて無理をするのではなく、あなたの特徴を良いとか悪いとか言わずじっくり眺めて、伸ばせるところを伸ばす。

そういう無理のない生き方が最も理想の人間への近道だと老子が言っているのではないでしょうか。

 

この価値観が固定化し息苦しい現在だからこそ、

私は『老子』を読むことをおすすめしたいのです。

 

読んで下さりありがとうございました。

 

参考文献

老子』、蜂屋邦夫訳注、岩波書店

https://www.amazon.co.jp/老子-岩波文庫/dp/4003320514/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1542041572&sr=8-1&keywords=%E8%80%81%E5%AD%90

 

 

 

 

『小説十八史略(一)』1章 感想 「妲己(だっき)と言う恐怖」

『小説十八史略(一)』1章 感想

 

※ネタバレを含みます。ご注意ください。

 

傾国という言葉があるそうで、手元の辞書によれば「〔国の存在を危うくする意〕(国政の妨げになる)美人」とのこと。

第1章にも様々な見どころがあるのですが、妲己(だっき)と言う女性は圧倒的なインパクトを私に残していきました。戦争の絶えない時代、中国のみならず世界各地で女性を献上する例はあったようですが……。まさにそういう時代の生んだ狂気なのでしょうか。

簡単に内容をさらっておきましょう。

 

冒頭に堯の時代の神話から幕を開けたこの『小説十八史略』は、続いて殷の暴君紂王が支配する時代に移ります。

殷の諸侯として勢力を誇る周は、名君文公の時代。文公は、紂王は打つべき時節にないと判断しますが、その息子である発と旦の兄弟は何とか打開策はないかと頭をひねります。

そして弟の旦があることを思いつきます。

それは紂王のためだけの美女をつくり、殷の内側から国を崩すという奇想天外なものでした。そのために旦は有蘇氏の美女が娘を生んだなら養子としてもらうと言う約束までしていました。

実際に娘が生まれると内密でもらい受け、紂王の好むように育てあげます。

紂王のためだけの美女です。

 

有蘇氏が紂王に対し過失をした際、遂に妲己が殷へと入ることになりました。これで勘弁してくださいと美人を差し出すことは当時ままあったそうです。

紂王はこの妲己をいたく気に入ります。一挙手一投足、何もかもが紂王の好みですから当然です。しぐさどころか以心伝心、相性もぴったりです。なくてはならない存在になりました。

「(わしが心の底のほうで考えつき、それをまだ表面にとり出せないでいるとき、妲己  はそばから汲み取ってくれるのだ)

と紂王は思った。

こうなれば、妲己は紂王にとっては、いのちであった。」

 

さてこの妲己ですが、非常に欲深い。快楽はとことんまで追求しなくては納得のできないたちでした。なので紂王をそそのかしてあらゆることをやります。

淫らな歌曲を作らせたり、天下の富を集めたり夜を徹してのパーティーをしたり、戦争を起こさせたり、人事に口を出したりと枚挙にいとまがありません。

作中、妲己は「炮烙の刑」(銅の柱を炭火であぶったものの上を歩かせ、落ちずに端まで行ければ罪を許すというもの。ただし柱には油が塗り込んであり滑りやすい。もし落ちれば猛激しい火炎に落ちて焼け死んでしまう。)を見るのを好んだとあります。

しかし何よりも恐ろしいのは紂王が妲己の言いなりになっていることにまるで気づいていないということ。

「紂王は妲己の言いなりであった。それなのに、紂は自分ではそう思っていない。

妲己はわしの考えている通りのことを考えておる。……

他人に命令されたことのない紂は、妲己の言ったことを、しまいには自分の命令だと思い込んでしまったのである。」

 

妲己にそそのかされて紂王は自らの叔父を刑死させ、もう一人の叔父も投獄してしまいます。そこに周が挙兵し大軍が押し寄せます。

人望をとっくの昔に失った紂王の殷軍は敗走。紂王は都に戻り火を放ち死にます。

 

……妲己は、生きていました。

旦(※この頃は父親の文公が死んだため名は周公ですが、混乱しますのでそのままにさせていただきます)は一種の憐憫を感じます。自分がこういう女性に仕立てあげたのだという覚えがあります。妲己は己の役目が殷を亡ぼすためだとも何も教えられてはいなかったのです。ただ紂王のために教育され、快楽を追求するように育てられたわけですね。

この無垢な女性を助けてやりたいと旦は考えます。

 

ところが……、

紂王夫人として兵に連れられ、床に跪いていた妲己は、旦を見上げ

「これで、いいのですね?あたし、りっぱに勤めたでしょう?」

という言葉が出ます。

 

妲己は知っていたらしいんですね。自身が殷を亡ぼすために紂王の夫人になったと。

その上で紂王を良いように誑かし、残虐な行為に及び、欲を満たしていた。

 

憐れむはずの存在がこの一言で全く得体の知れない恐怖の対象に変わってしまいました。

読後、背筋にさっと寒いものが通りました。

妲己はまさに傾国の名にふさわしい存在でした。

 

これってどこまでが陳舜臣さんの想像で補われているんでしょうか……?

こうなってくると『十八史略』そのもの気になってしまいますよね。

今回は触れられませんでしたが、1章には他にもこちらも傾国で有名な褒姒や、斉の桓公誕生をめぐるエピソード(管鮑の交わりは特に良い話でした。)が見どころでしょうか。

 

第1章から見どころが大変多く愉しみな本です。

次回は第2章をご紹介したいと思います。

頭木弘樹さんの『絶望名人カフカ×希望名人ゲーテ 文豪の名言対決』——名言を比較する愉しみかたもある

 名言集には色々な種類があるけれども、ゲーテカフカを並べてみるという試みは意外でした。

 けれども頷けます。というのもこの二人、非常に対照的で並べると実際面白い。

 カフカの代表作は突飛な世界設定と展開が非常に魅力的で、主人公が突然虫になってしまう『変身』やたどり着けない城に雇われた男の話『城』、突然いわれのない罪に問われた男の話『審判』など、他の作家の追随を許さない独特な話が多いです。

 ゲーテの代表作は『ファウスト』、『若きウェルテルの悩み』などでロマン主義的な色合いが強く、生きる活力がみなぎっているような印象。

極端に言えばカフカが暗い話なのに対しゲーテは底抜けに明るいことが多いのです。

 

 この本ではそんな両者の名言をテーマごとにまとめてある。さらに面白いのはこれが対になって並べられている点でして……、

 

 例えば、「対話1 前向き×後ろ向き」では、

ゲーテ 2}良いことが待っている

希望をうしなってしまったときにこそ、良いことが待っているものだよ。

に対して

 

カフカ 2}真っ黒な波が待っている

ぼくがどの方角に向きを変えても、真っ黒な波が打ち寄せてくる

 

が配置されるというこういう配置なのです。

 ゲーテの諦めるなという強いメッセージを見た後の、カフカの絶望的なつぶやきは際立って見えます。

 各名言の後にはこの編訳をした頭木弘樹氏の解説がつきます。

 

 続いていくつか印象的な対決をご紹介しておきます、

 

「対話2 強さ×弱さ」

ゲーテ 7}大地に足を

大地にしっかりと立って、まわりを見渡すのだ。

力のある者には、世界が語りかける。

 

カフカ 7}大地がない

ぼくの足の下に、たしかな大地はありません。

はっきりとはしないまま、ぼくはとても怖れていました。

自分が地面からどれだけ浮き上がってしまっているのか、ぜんぜんわからなかったのです。

 

 危うくなったら足場を見ろとゲーテ

 そもそも足場がないとカフカ

 

「対話9 恋を楽しむ×恋に苦しむ」

ゲーテ 38}愛されて自信がつく

あの人がわたしを愛している!

——そのときから、

わたしは自分自身に、

どれほど価値を感じられるようになったことか。

 

カフカ 38}愛されても虫

なんと言っても、

あなたもやはりひとりの若い娘なのですから、

望んでいるのは、

ひとりの男であって、

足元の一匹の弱い虫ではないはずです。

 

 好きな女性を思って書いた文章のはずが真逆の展開に、

 彼女がいるから強くなれるゲーテ

 彼女がいると自分のちっぽけさが際立つカフカ

 

 さらに対話13ではゲーテカフカの共通点として「ゲーテカフカ」を対話14では「ゲーテの絶望×カフカの希望」という単なる対決に終わらないところも楽しみのひとつです。

 

 ちなみに好対照な二人の共通点は意外と多いらしく、

 本書によれば……

父方は元々低い身分であったが裕福な家庭に生まれた、父親との不和、父の要請で法学を修めるも本人は文学を志望、画家への希望、お気に入りの妹の存在、職業は役人、朗読が好き、原稿をよく焼く、未完の作品が多い、自殺を考えるも思いとどまる、恋愛のたびに名作を書いたと多数。

 一方で対照的な面として例えば……

壮健、恋愛に積極的、多食なゲーテ

痩身、恋愛に悲観的、小食なカフカと続きます。

 

 人間は生きている以上様々な問題にぶつかるわけですが、

 そんな時、人一倍の感覚で言葉を残した作家の名言は励ましや慰めになってくれるはず。

 特にカフカの名言は、名言集は明るく啓発的なものと考えている人が見ると目からうろこ間違いなしです。

 

 ゲーテで見るかカフカで見るか、個別の名言集としても比較するにしても2度おいしい名言集でした。

 

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中国史入門に陳舜臣さんの『小説十八史略』を読んでみる①。

国史入門に『小説十八史略』を読んでみる①。

 

 中国史を題材とした小説を読むときにどうにも歴史の全体の流れが分かっていればもっと楽しめるのだろうなと思うことがよくあります。

 日本の歴史文学だと日本史に疎いとはいえ、幕末なら坂本龍馬西郷隆盛、戦国なら織田信長豊臣秀吉が出てくればそれだけで親近感が湧くし、時代の流れも縄文、弥生、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町、戦国、安土桃山、江戸、そこから明治、大正、昭和、平成と大まかな流れや出来事も頭に入っているので何となくでも余裕をもって楽しめます。

 ところが中国に関しては全くといっていいほど全体の見通しがつきません……。

 元号がどのように推移したのかとか、時々の皇帝が何をしたとか、知っていたとしてもまるで大きな歴史に穴を穿つように細かいものばかりで、しかもその多くがあやふや。これではいけないと思いなおし中国史、特に通史を勉強すれば、何倍も楽しめるとこう考えました。

 こういう知識は一度入ってしまえばその後の関連する分野に応用が利きやすいので、なるべく早いうちにやっておいた方が良いに違いありません。

 

 さて机には『詳説 世界史研究』や『詳説 世界史図録』などもあるが、教科書による勉強というのはなかなか味気がない。いや、もちろん最終的にはこれらも見たいのですが、まずは軽くそして楽しく中国史全体を俯瞰できる作品が欲しい。

 

 そんなとき古本屋で良さそうなものを見つました。それがこの陳舜臣さんの『小説十八史略』。

 本の裏表紙の説明には、

「夏に先立つ幾千年、中国中原に君臨した神々。時代は下り、やがて殷へ。暴君紂王を倒して次なる世界を開いたのは周だった。その周も大動乱をへて秦に統一される。——英雄は芸道に時代に生まれる。大陸も狭しと闊歩したあまたの梟雄豪傑たち、そして美姫。その確執葛藤の織りなす人間模様を活写。〈全六巻〉」

 

 中をぱらぱらとめくると小説になっており、言葉遣いもくだけており大変親しみやすい。

 特に歴史小説はあまりカタカナ語を使わないイメージがあったのだが、作者は自由に使っている。

 例えば「紂王の命令一下、ただちに野外バーベキュー・パーティーがひらかれた。」伍子胥の復讐は、日暮れて道遠く、きわめてストレートであったが、申包胥の楚の滅亡を防ぐ努力も極めてストレートであった。」などと普通に使われていていい感じ。    

 それにしてもバーベキュー・パーティーは初めて見たとき、思わず現代風の景色を想像してしまい何ともほほえましい想像をしてしまいました。

 

 他にも巻頭に主要登場人物一覧、巻末に扱った時代ごとの地図がついており地名を確認できるつくりになっていて、引くうちに大体の人名・位置が頭に入ってきます。

 

 そもそも十八史略は元代につくられた中国史教科書で、編纂した人は曽先之(そうせんし)という人だったそう、『史記』から『新五代史』まで続く正史17種に宋の時代の史書を合わせ中国史の全体像を逸話つきで書ききったものだそうです

 更にその十八史略陳舜臣さんが現代の読者に分かるように解説を入れ、ユーモアたっぷりに再構築したのが『小説十八史略』。単なる訳書でない証拠に冒頭から『十八史略』に載っていない中国の神話から始めてしまうところからして引き込まれますね。

 

 すでに2巻まであっという間に読んでしまいましたが、面白かったエピソードなどを後に紹介しておきたいのですが、また次回にしたいと思います。

 

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アシナシトカゲ

アシナシトカゲ

 

 

茂みをゆっくりと進んでいく長い姿、舌をチロチロと出しながら目をギョロリと動かします。そして上空から鳥の鳴き声が聞こえると身を縮こませ隠れます、しばらくすると隙間から這い出てまばたきをひとつ……。

よく見ると尻尾の先がまっすぐ切られたような断面が見えます。尻尾を敵が襲われたときに切り離したのかもしれません……。

 

 

さて上記の文章で一体何を想像されたでしょうか。

ヘビと思った方は残念、実は上記の文章にはヘビにはできないことがいくつも示されています。

 

一つずつ確認してみましょう。

まず、ヘビはまばたきをしません

寝ているときでさえかっと見開いたような目をしています。

しかし実はヘビは透明のまぶたを常に閉じていると言った方が正しいのです。

と言いますのも、脱皮した皮を拾って頭の方を観察すると目の位置にも皮が残っていることが分かります。進化の過程でまぶたがくっついてしまったのです、これは地中での生活が長かったからと言われています。例えば地中で暮らすモグラの仲間には目が皮膚の下に埋まってしまっているものもいます。

ヘビに関して言えば地上に再び進出した際、まぶたの構造はそのまま透明化したと考えられています。

 

次にヘビは耳がありません。ヘビとトカゲの横顔を写真などで見比べると、トカゲには目の後ろの方に穴が開いているのを確認できます。これは人間の耳にそうとうするもので中にはちゃんと鼓膜が存在します。

一方でヘビにはそれがありません。ヘビは耳ではなく体全体で感じる振動や赤外線センサーの役目を果たすピット器官によって他の動物の動きを察知しているようです。

つまり空から声がしても構造上ヘビは感知が難しいのです、これも地中生活の長かった所以でしょうか?

またインドでは路上にヘビ使いと呼ばれる人が、笛を吹いてコブラがそれにあわせて踊る光景が見られますがおそらく音ではなく体や笛の動きに連動しているのだと考えられます。

 

さらにヘビは尻尾を切り離すこと(自切)はしません。尻尾を切ることができるのはトカゲの仲間です

「トカゲの尻尾切り」という有名な言葉があるように、トカゲは尻尾を切るものと思ってしまいそうですがトカゲ類すべてがこの自切を行うわけではないそうです。

 

この一見するとヘビの生き物たちはアシナシトカゲやヘビトカゲと呼ばれています

(でも、実際はアシナシトカゲには脚があるものも分類されています、ややこしいですね。)

トカゲとしての特徴(まばたき、耳、尻尾切り)を持っており、さらに骨格を見ると脚があった痕跡があり、一度あった脚がどんどん短くなって最後にはなくなってしまったことが分かります。

 

このように別種の動物が同じような見た目や能力を獲得することを収斂進化と呼びます

ヘビとアシナシトカゲの関係の他にも、モグラとオケラの手の形が土を掘るのに最適な形であったのか、ほぼ同じ形状であったりします、最も驚いたのはオーストラリアの有袋類(カンガルーのようにお腹に子育て用の袋がある生き物)には、よく似た生物がまるで最初から遂になるかのように確認されているのです。例えばオオカミとフクロオオカミ、ネコとフクロネコ、アリクイとフクロアリクイ……など。

このような例を見ると生き物は好き勝手に進化しているようで、何か一貫性を持っているのではないかと想像を膨らましてしまいます。

 

 

進化とは不思議なもので一定の方向を持ちません、進化と言えば常に進歩・発展しているようですが実に相対的なものであることが分かります。

きっとアシナシトカゲにとっては入り組んだ地形で生きていくために最適な進化であったに違いありません。

最善を目指したつもりが傍から見ると退化のように見えてしまうこともあるようです、しかし本人が満足であればそれが一番なのかもしれませんね。

 

 

それでは今日はこの辺で失礼します。

征夷大将軍

征夷大将軍

 

征夷大将軍と言えば?と聞かれたら誰をとっさに思い浮かべるでしょうか?

源頼朝足利尊氏徳川家康といったあたりが有名でしょうか。

幕府の長になった人はもれなく征夷大将軍になっているというわけですね。

 

さてそれでは日本史史上最初の征夷大将軍と言えば誰なのでしょうか?

調べてみると征夷大将軍の興味深い歴史が分かってきました。

 

 

日本初の征夷大将軍が任命されたのは源頼朝征夷大将軍に任命された1192年からさかのぼることおよそ400年、794年に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)が初の征夷大将軍に任命されました

大伴弟麻呂は幕府を開いていません、もともと征夷大将軍蝦夷地(今の北海道)を平定するという役職の長という意味だったのです。

この夷いう文字は中国の四夷(しい)という考え方によるとされています。

中国を中心に考えて、四方の異民族つまり中国に従わない異民族をそれぞれ東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、南蛮(なんばん)、北狄(ほくてき)と呼びました。これらの言葉は蔑称つまり馬鹿にした言い方になります。

今でも野蛮という言葉などにそのイメージが残っています。文化の開けていない劣った民族というニュアンスがあるのです。

 

話を戻しますと、朝廷を中心に考えるとより東にある蝦夷地に住む民族は東夷にあたります。そこで東夷を征伐する将軍として征夷大将軍になったのです。

しかし実際には征夷大将軍という役職以前にも鎮東将軍や征東大使など同じ役目を担う官職が出ていましたが名称は安定せず、征夷大将軍大伴弟麻呂とその次の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)だけで、次の文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が征夷将軍になり征夷大将軍という役職はなくなってしまいます。

 

時を経て征夷大将軍が復活したのは源義仲であったと言います。

ここで少し鎌倉幕府制定までの歴史みておきましょう。

1180年平清盛後白河法皇を幽閉し絶大な権力をふるっていました、しかしそれまでに役職や財産を奪われた貴族や大寺社、地方の武士の不満は高まっていました。

平氏勢力として大きな活躍を見せていたのが源頼朝義経の軍勢と源義仲の軍勢でした。

1183年義仲の軍は越中平維盛(たいらのこれもり)率いる軍勢を撃破し〔俱利伽羅(くりから)峠の戦い〕勢いのまま京都へと攻め上り遂に京都の平氏勢力を一掃してします。京都は大喜び。

ところが義仲は継嗣問題に介入しようとしたり、軍は統率が取れず京都で盗みや暴力など問題が絶えず後白河法皇源頼朝の方に期待するようになりました。

 

源義仲平氏討伐のために中国地方へ進軍している間に、法皇から頼朝に義仲を討つように命じました。それを受け源頼朝源義経源範頼の兵を京都へ派遣することを決め移動が始まります。

朝廷が自分を討つために頼朝の軍勢を派遣したと知った義仲は急いで京都へ戻り、法皇に対して意見します、法皇のために平氏と必死に戦っていたのにあんまりだというわけです。

この時まだ範頼・義経の軍勢は京都におらず法皇と義仲の気まずい交渉が始まります。

しかし交渉の解決策もないままじりじりと義仲を討つ軍勢が近づいてきます、義仲はこうなってはと、後白河法皇を幽閉し前関白の松殿基房と組んで京都の政治を掌握してしまいます。

1184年1月、ついに範頼・義経の軍勢が美濃(今の岐阜県南部)まで近づいてきました、

義仲は法皇に自らを征夷大将軍に任命させ戦いに挑むことになりました。

頼朝の本拠地鎌倉は京都よりも東にあります、つまり迫って来る軍勢は東夷だったわけです。

結局法皇の幽閉などで人望を失っていた義仲の軍勢は小さく大敗。義仲も討ち死にしました。

 

その後源頼朝平氏征伐を命じられ、壇ノ浦でこれを討ちます。

これでめでたしかと思いきや頼朝の許可を得ず、義経法皇から官位を受けてしまいます。

ここから頼朝と義経の不仲が始まります。

義経は地盤の固い東北に入り奥州藤原氏のもとへ逃げ込みます、頼朝はこの後義経を自殺に追い込み、義経をかばうような行為をみせた奥州藤原氏も滅亡させてしまいました。

1190年には頼朝は征夷大将軍を希望しますが、法皇はこれを拒否し結局権大納言(ごんのだいなごん)、右近衛(うこのえ)大将になり、1192年の後白河法皇の死後に頼朝は征夷大将軍になりました

 

ところでどうして頼朝は、義仲がつけていた征夷大将軍の官位を欲したのでしょう?

縁起が悪いとか、印象が悪いとは思わなかったのでしょうか。

実は現在義仲が任じられたのは征東大将軍であり、征夷大将軍ではなかったのではないかという説も浮上しています。ひょっとしたら教科書の表記が変わることもあるかもしれませんね。

 

確かにそれなら納得はできなくないですが……、真偽はいかにといったところでしょうか。

 

こういう不可解な部分は調べてみたり、想像を膨らませてみたりすると面白いものです。

たまには歴史に思いをはせてみるのも良いものですね。

 

今日はこの辺で失礼します。