ポテトデラックスを食べた話
以下、妄想。
パッケージには「金貨のようなポテトチップス」と書いてある。今回購入したのはサワークリーム味で緑のカラーリングのパッケージになっている。
3cmから4cmで不揃い。円形もあれば楕円になっているのもある。もっとも特徴的なのがその厚さで3mmから4mmほどもある。もちろんこちらも不揃いで薄いものもある。
もしこれが本当の金貨なら、こんなに不揃いだと貨幣として使うには問題あるのだろうなとも思う。
「これってさ、本当の金貨だったら絶対信用なくすよね」
私は袋から数枚のポテトチップスを出した。どれも「金貨のようなポテトチップス」というパッケージの説明通りコインみたいな大きさ、厚さをしている。
「ま、じゃがいもだしね?」
「いや、そうじゃなくて。本物の金貨だったとしてもだよ。見てみ?」
お皿の上にすべてのチップスが広げられていく。何の変哲もないポテトチップスだと思う。あ、あれなんかネズミみたいだ。
「この形。貨幣ってのは一枚当たりの重さが一緒でこそでしょうよ。これじゃ、誰も一枚いくらって信頼してくれないって話だって。」
「なるほどねー。細かいねー。」確かに大きさも厚さもまちまちだし、割れているのも混じっている。ポテトチップスならどれもおいしいですむ話だけれど。さすがにこれがお金じゃまずいのか。しかしふと疑問が浮かぶ……。
「でもさ、ギザ10ってデザイン違うけれど10円じゃん。あとオリンピック用のお金とかさ」
「記念硬貨のこと?」
「多分それ。500円よりちょっと大きいだけで10000円とかするじゃん。あんまり大きさとか関係ないでしょ?」
「うーん。それはあれよ、今のお金自体が重さで考えなくなってるから。昔は日本も重さで考えてたのよ。江戸時代の小判とかもそうだし。紙幣だって一枚当たりうんたらグラムの金と交換できる引換券だったんだから。」
「重さねー。ちょっと位なら許してくれるんじゃないの?」細いポテトチップスを口に放り込む。
「昔はそんなことしたら大げんかよ。ちょっとでも怪しかったら商売成立しないから。どうしてもってときは秤持ってきて逐一量ってたっていうしね。」
「へえ、じゃあ今のお金って何で信頼されてんの?。」
「う~ん。国が後ろ盾にあるっていう信頼?」
「じゃあ国がペットボトルのキャップがお金でーすって言ったら、OKなわけか。」
「まぁ……、そうね。偽造するヤツが跡を絶たないでしょうけれど。」
兌換紙幣
明治時代に発行された紙幣には金○○グラムと交換するという証文が書いてある。
このように金や銀と交換する権利を保障する紙幣を兌換紙幣という。兌換とはつまり交換のこと。この場合紙幣は、必要な時に確実に金や銀などの正貨と交換できることによって信頼を得られることになる。もちろんこれが成立するには紙幣と正貨を交換してくれる個人および組織が信頼されるものでなければならない。ここから個人及び組織が信頼できるのであれば、金や銀に交換できなくとも信頼を得た紙幣として使えるとしたのが現在流通している紙幣になる。こういうものを不換紙幣という。
金や銀を基準にお金の世界が回り始めるといかに利益を得るかの過程で、お金自体に含まれる金や銀の割合を減らして利鞘を得ようとする人たちが現れる。グレシャムはそういう意図から作られた悪貨が蔓延することを確認し「悪貨は良貨を駆逐する」と指摘した。
悪貨ばかりになると貨幣自体の信頼が下がるため、貨幣に対して物が高くなるといった現象が誘発される。経済の歴史ではこうした信頼が失われ当たり前のように存在していた経済があれよあれよという間に消失してしまうことがある。貨幣や紙幣の信頼を担保し続けられるかが経済を回すうえでは非常に大切である。
交換価値
金や銀が貨幣として用いられるようになったのはその材質が安定していたからだとされる。食べ物だと腐ってしまうし、生き物だと死んでしまうこともある。でも金属は長く用いることができるし、それに加工もそれほど難しくない。
とはいえ交換するものはある程度の条件がそろえばお金として機能し始めるようだ。
ある刑務所ではたばこがお金の役割を果たしていたというし、手塚治虫の自伝によれば肝油がお金の役割を果たしていたという。
このような何かの価値を測る際に、共通の指標として使えるものがお金である。
そして交換できる能力があるものには交換価値があると考える。多くのものには何かに使えるといった使用価値と交換できる交換価値が一緒になっているのだが、貨幣・紙幣のようなお金の場合には交換価値しかないこともある。