心理的難民

心理的難民

 

去年渋谷で起きた通り魔事件のことを書いてある日記の内容まとめ直してあげることにした。犯人は埼玉県の女子中学生で15歳。被害者は19歳の女性とその母親。

幸いにも死者は出なかったとネット記事ではみたがあの後どうなったのだろうか。

供述によれば刺した側は「死刑になりたかった」「母親を刺す練習としてやった」「誰でもよかった」「あの子死んだ?」などと供述していたらしい。

死刑になりたかった。死刑って何なのだろう?どうしてこんな犯罪が起こっているのか?私なんかが考える意味はないかもしれない。間違っているかもしれない。しかし分からないなりに考えてみよう。そうしないとどうにも落ち着かない。そうして私は思索をする、他の誰でもない自分のために。

 

ハンナ・アーレントによれば20世紀は戦争の世紀であると共に難民の世紀であった。

個人の営みとは全く無関係に戦争が起き、土地と財産は失われ、人々は我先にと戦争を避けて逃げだしていく。

そして国境を越えた先で、彼らは難民となる。

難民は法的な保護を受けることのできない人間である。フランス革命で声高に主張された基本的人権すらそこにはない。ヒトという動物がひしめき合っているに過ぎない。保護した国が法的な保護を正式に認めるまで彼らは難民キャンプという非人道的な場所でじっと耐える。

そんな彼らがそういうプロセスを抜きにして、一瞬で人間として認められる抜け道があるという。それが犯罪である。犯罪を起こすと難民は法律における加害者となる。そうここで初めて彼らは動物から脱却することが可能になるのだ。

難民キャンプをあとに、もっと洗練された居住の場所、刑務所に住処を移すこともできる。人間扱いされずにいることがどんなに苦しいことか、今までどんなに声を上げても誰も耳を貸してくれなかったのが、犯罪を犯した瞬間に、刑事、検事、弁護士、被害者といった面々が次々と現れ、事務的にとはいえ話を聞いてくれるのである。

難民にとって、犯罪は自分の存在を明らかにする近道になってしまう。

罪を犯すのは手段であって、本当の目的は誰かに存在を知ってほしいということだとしたら?そんな理由で犯罪に巻き込まれる被害者もたまったものではないだろう。

でもそれ以上にそんな理由で犯罪に手を染めざるを得なかった加害者もあまりにも救いがないように思える。

私の存在を知らしめることができるのであれば、本当に誰でもよかったのだ。

そうすることで初めて私は、透明人間から見える人間になることができる。

「どうしてこんなことをしたのか」という事務的なやり取りであれ誰かが私の話を真剣に聞いてくれる。

死刑の瞬間ですら、誰かが目をそらさずに死の瞬間を看取ってくれる。

 

何気なく暮らせはずがいつの間にか難民になってしまっていることがあるかもしれない。そういったとき一体何ができるのだろう。一体どうすればいいのだろう。

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。