ソクラテスはカウンセラーになれるだろうか?

 

ソクラテスをカウンセラーにしようとすると型破りなカウンセラーになってしまう。

というのもソクラテスはいつも「私は真理について何も知らない」と信じているし、それに相談に来る人に対しても「あなたも真理について何も知らない」と信じている。

だから相談者が「これが真理なんだ」という主張に対して、ソクラテスはまず大真面目にうんうんと聞いた後、どうしても否定をしてしまう。それもあくまで論理的に、そして反論の余地もないほどに言い負かしてしまう。悪気は一切ない。これがソクラテスにとっては誠実の証なのである。

 

そして相談者は自身の発言に根拠がないことを認識させられる。そのあとソクラテスは知らない同士仲良く真理とは何か話し合おうじゃありませんかと提案し。しばらく議論する。もちろんその場で出てくるのはあくまで両者のうちで納得できる範囲での真理の話である。

ソクラテスにとって相手の世間話や愚痴などは聞くに値しない。必要なのは真理とは何かという一点であるから、それに関係のないものは雑音に近い。

 

一方でカウンセリングを受けようと思い立った人たちは誰もがみな真理とは何かを知ろうと来るわけではない。目の前の苦しみから楽になる方法を聞きに来ているのであって、苦しみとはそもそも何かを話し合いに来たわけではない。毒矢が刺さって苦しんでいるのに、治療もおざなりに痛みの本質とは何だろうか?と聞くのはあまりにも浮いた反応としか言いようがない。もっともソクラテスも従軍経験があるからそんな不可解な対応はとらないはずだが、哲学と臨床ではそういったすれ違いが起きてもおかしくはないという例えである。

 

またソクラテスはだれかれ構わずに哲学的な議論を吹っかけてしまうところがある。

普通医者や臨床に携わるカウンセラーなどは、だれかれ構わず「あなたは病気だ」「治療を受けるべきだ」とは言わない。あくまで困っている人が自発的にやってきてそれに対して治療を行うという順序がある。

しかしソクラテスにはそれがない。だから自分から押しかけていって質問攻めにした挙句「あなたも何も知らないのですね」と言いのけてしまう。これが医者やカウンセラーならいきなり押しかけてきて頼んでもないのに診断して「健康じゃないですね、治療を受けた方が良いですよ」と言ってくる感じになってしまう。

そういうことはいらぬおせっかいというもので不用意に人を不快にさせてしまうから慎んでおくべきことなのだが、ソクラテスは言わないではおられない。たとえ裁判にかけられて死罪になるやもという状況ですらこの姿勢は揺らぐことはなかったのだから。

要するにソクラテスはカウンセラーにするには少々融通が利かなくて、元気がよすぎるのである。