私という存在はどこまで複製できるのか

人間の意識を神経同士の発火パターンに置き換えてみる。

ひとつのニューロンが発火しそれがさらに次のニューロンを発火させていく。一本のニューロンはいくつものニューロンと連携しているから発火のパターンはみるみるうちに広がっていく。

仮に技術が発展してまったく同じ位置に同ニューロングリア細胞、血管を配置できるようになったとして果たしてそれは私と同じ存在だということができるだろうか。ある刺激に対する発火の癖も、部分的なニューロンの少ないところも精緻にコピーできるようになったとしてそれは私と同等の意識を有するのだろうか。

しかしここには身体がない。入力装置の欠陥がある。私の眼は基本的にあなたと同じような構造をしているが、やはりまったく同じように世界を受け取れない。そして脳で再構成するときもまったく同じにできない。私が感じた空の青さの感覚は、きっとあなたの頭の中に思い浮かぶ青ではない。そしてその違いは既に光線が目に入るその瞬間にはもう始まっている。

もっと技術が発展してある時点の私を構成している全分子の位置を特定しさらにそれを再現できる装置があれば、そこに生命体としての私があたかも以前から存在していたかのように息づくのだろうか。細胞の内の核では当然のごとくDNAを複製し、タンパクを構成し身体の代謝を行うのだろうか。そうしたとき今度こそそこにいるのは私と同等な意識を持っているのだろうか。

記憶はどうなのだろうか。名乗ることはできるだろうか?自分の年齢は言えるだろうか?記憶というのはニューロンの枝の数や、刺激に対する反応の起こりやすさなどの物理的な性質に還元できるはずだ。でもそれはある刺激を受けて、さらにそれを元にまた編集されてといった以前を前提にしたプロセスのはずだ。

ある写真を目の前にして、これはあの時、あの場所で何をしたときのものだよねと、すらすらと口に出せるのだろうか。つい先ほど生まれてきたこの生き物は。それとも何か感情が動かされ説明しようするも上手くできず、その感情にぴったりな作り話をして無理くりに納得させるのだろうか。(左右の脳が独立してしまった場合において左脳は自分の管轄していない視界で起きた現象にあたかもな説明を創作することが知られている。)

 

私の記憶は科学力が発展すれば再現可能なものなのだろうか。

そうだとすれば誰かの記憶もその人まるごと作ってしまえば取り返したことになるのだろうか。教育によって身に着けた脳の変化はそうした場合も引き継がれていくのだろうか。

それとも記憶喪失や解離性障害が起きてしまったかのように記憶や認知に何らかの支障を抱えた状態で暮らすことになるのだろうか。実は私が私であると思っているのも周りからの情報を鵜のみにしているからであって、本当はなにも知らないのではないか。私を含めた世界がほんの少し前にできたかそれすらも確かめようがない。

 

人間は一体どこまで還元できるのだろうか?そしてどこまでが信頼のおける実体なのか?