学ぶ 真似ぶ ミームの選択

誰でも最初は真似から始まる。そもそも学ぶという言葉は真似ぶから転じたものだという。この生まれたら必ずできる生物が遺伝的に受け継ぐ遺産というものには限りがある。例えば卵から生まれたばかりのひなはその時点で鳴くし、動くものを親として認識しついていく刷り込みといった驚くほど精緻な行動が最初から組み込まれている。

その一方で真似ぶことを前提とした行動もある。例えばウグイスは上手に鳴くためにはお手本がなければいけない。ある時期までにきれいなウグイスの鳴き声を聞いていないと一生下手な鳴き声で過ごしていかなければならない。つまり先天的に歌う喉も音を聞き分ける耳も持っているはずなのに、使う術が永遠にうしなわれてしまうのである。

 

人間の構造はウグイスよりも文化的なものが多いから遺伝的に最初から組み込まれた動きではない行為が驚くほど多い。それらは誰かから教えてもらったり、自分で見て学習していくしかない。脳内にある観察している相手の動きを見て自然と真似ようとするミラーニューロンはこの真似びに一役買っていると思われる。こうした文化的な遺伝子をドーキンスが言うみたいにミームというのであれば、ウグイスやサルだってミームを活かしていることに間違いはないのだ。

 

サルのミームに関しては宮崎県串間市にある幸島で観察された海で芋を洗ってから食べるサルが確認されてからその行為が広まっていきついには世代を超えて継承された事例がある。

そういった真似ることから動物は遺伝以上の情報を次世代につなげていけるようになったと思うと何とも不思議な感じがする。私という個体が死んで遺伝子すらも残せなかったとしても、誰かが文化を継承していてくれればその文化は次の遺伝的には関係のない次世代にもつながっていくのである。

 

情報が氾濫して何が正しくて何が間違っているのか見当もつかないような時代の中で、そうした喧噪の中で失われていく文化が多数あるように思う。それは一時期の流行りのようなものかもしれないし、どこかの少数民族が使っていた長い歴史をもっていた言語かもしれない。

 

今我々は歌を忘れたウグイスになりつつあるのかもしれない。誰もかつての鳴き声を覚えていなければ、ウグイスはホーホケキョとなくという常識も通用はしないのだ。でもそれでその殻を破ったウグイスはもっと素晴らしい歌にたどり着くのかもしれない。正解なんてものはないのかもしれない。

 

けれども考えてはいなくてはならない。制限ある時間と能力の中で何に継承する価値のあるものだと捉え、何を真似ぶのか。そしてそれを誰かに真似してもらう機会をどのようにつくるのか。これは自分では手の出せない遺伝子とは違い、ミームはあくまで個人の意思で選択できる範囲にあるということだ。文化はそういう視点から見てみてもいいのではないかとぼんやり考えてみる。

 

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