僕は新聞が読めない__はじめに

僕は新聞が読めない——はじめに


最新の情報を効率よく得ようとすると便利なのが新聞である。
ところが新聞は厄介なもので一定以上の識者を対象としている様である。
そのため新聞を開くと分からないことがたくさん出てくる。
単に私の力量が至らないせいでもあるのだが、
気になったことや調べたことをせっかくなのでまとめておくことにした。

構成は以下のようにした。
① 記事もしくは記事の概略
② そこから導き出した疑問点
③ 情報の整理
④ まとめ

取り上げる内容は社会的関心が高いものではなく、あくまで自分のアンテナに引っかかったものとする。
調べる方法はまず高校クラスの内容で調べてみ、なお疑問点が解消しない場合は専門の本やネット活用し調べる。
また到底答えの出なさそうなものや、あまりにも奥が深いと判断したものについては打ち切りを実行する。

また内容は一部、新聞を飛び越えネットニュースや本の内容になるかもしれないが基本的に新聞を取り扱うということでタイトルは「僕は新聞が読めない」とする。

このページはこの企画が更新された場合において、
リンクを貼りつける場所として活用したいと思っている。

 

一回目があがりました。

麻生副総理の発言をきっかけにヒトラーの独裁権獲得までを確認していきます。

takenaka-hanpen.hatenablog.com

 

二回目あがりました。三回目に続く内容となっています。

何故今もアメリカはアフガニスタンへ派兵するのか?

アフガニスタンイスラム原理主義の流れを追っていきます。

takenaka-hanpen.hatenablog.com

「司馬遼太郎で歴史を楽しむ『関ケ原』__一回目」 石田三成に見る5つのキーワード

司馬遼太郎で歴史を楽しむ『関ケ原』……一回目」
0.
前回で教科書的な観点からの「関ケ原の戦い」についての知識の整理と、そこから導き出される疑問点を整理しました。
詳しくは前回のページをご覧ください。

takenaka-hanpen.hatenablog.com

今回から司馬遼太郎の内容に入っていくのですが分量が多いため、上巻・中巻・下巻と一冊ずつ内容を吟味していこうと思っています。

今回と次回にかけて、この本の主役ともいえる石田三成徳川家康について上巻のなかでまとめておこうと思います。
一体司馬遼太郎はこの二人にどのようなキャラクター性を与えたのか?
ここを抑えておくと全体を見渡すのに非常に便利です。

また別の記事として、小説で歴史を見る際の注意点をまとめておこうと思います。
でき次第リンクを貼らせていただこうと思っています。

 

1. 石田三成について
石田三成に見る5つのキーワード
① 吏才
関ケ原』の冒頭は司馬遼太郎氏の少年期の回想から始まります。その時聞かされた話は石田三成がまだ寺の小僧であった時、初めて豊臣秀吉と邂逅した際の逸話です。
簡単にまとめますと、
秀吉は喉の渇きを潤すため寺に入り茶を所望した。それに対応したのが三成。
三成はまず大きな茶碗の七、八分にぬるいお茶を入れ出した。
一気に飲み干しもう一杯と秀吉。
次に三成は湯をやや熱くし最初の半分ほどの量にした。
さらに次の杯では、舌の焼けるような熱めのお茶で小茶碗にほんの少しだった。
その器量に感心した秀吉が三成を城にもらい受けることにしたと言う。
このような話で三成の器量の良さを表しています。
この当時秀吉は部下が少なく、良さそうな人物はどんどんスカウトしていっていたようです。

他にも朝鮮出兵時の渡海運輸について、司馬氏は「…これだけの大軍を輸送するばあいの、これは世界戦史上の稀有な成功といっていい。」と絶賛。
この時運搬されたのは二十万人の兵に、兵糧、馬とその餌、武器など。これを四万もの船に乗せ、さらに出航や積み下ろしを計画したそうです。
他にもこのような政治家としての才能の話には事欠かない三成。この才能を認め秀吉は三成を重用し続けました。
② 正義漢
石田三成はさらに『関ケ原』で正義をこよなく愛する男として書かれます。
石田三成の家臣で、自信も名高い武将である島左近石田三成に対して人は利で動くと諫めます。これは三成が人は正義で動くべきと言う価値観を持っていたからです。
左近の言うように、秀吉麾下の武将たちは多くが秀吉に感服したわけではなく損得勘定で集まっていると言う状況だとすれば、秀吉の跡継ぎの秀頼が自動的に二代目になるかどうかは怪しいことになります。
司馬遼太郎も豊臣政権で倫理や道徳が浸透するにはあと二代か三代は必要であったと書いています。
秀吉が死んだ時、秀頼は六歳。権力を掌握するにはあまりに幼すぎます。損得勘定で動く武将は戦争の可能性も視野に入れ、次の権力者は徳川家康と歩み寄った人たちもいたようです。
家康に歩み寄り恩を売っておくという姿勢は、厳しい戦国の世を生き抜いてきた武将たちの生存戦略として一般的なものだったと思います。
しかし、石田三成豊臣秀吉の恩を忘れ権力簒奪に動く徳川家康とその取り巻きは正義をないがしろにする奴らだと憤慨するのです。
③ 嫌われ者
正義感の強い三成は妥協を許さない男としても書かれます。
例えば朝鮮戦争の際、加藤清正小西行長はどちらが京城に先につくかで競争になり、結果は小西行長が一日早く着きました。悔しがった清正は一計を案じ、
「——何月何日、京城に入りました。」と行長より早く報告することにします。この文面には真っ先にや一番乗りでとは書かれておらず後でとがめられても事実を報告したまでと言えるという妙案でした。
幸い行長の報告よりも早く秀吉のもとに届き、秀吉は清正が一番乗りと思い感状を出します。
三成はと言えば「それは間違いでございます」と事実を述べ、むしろ清正の負けず嫌いな性格が作戦の支障になっていると分析します。司馬氏は「秘書官としては当然なこと」をしたとして、一方で「前線にいる実戦部隊の感情を害することははなはだしかった。」としています。
秀吉は三成の報告を聞いて「——虎之助め。おのれの武辺立てのみに熱心で全体の建前をこわすやつ。」と激怒。清正への評価は一気に落ちてしまいます。
清正は三成が讒言をしたと考え、三成・清正間の関係も冷え込みました
このような事実をオブラートに包まず真実のみを求める三成と、その場の流れを読み勢いで問題を解決し面子を大切にする武将達との軋轢がうかがえます。
石田三成は前線で活躍する武将たちにとっては非常に厄介者であると考えられていたようです。ここから三成は嫌いだから東軍についた武将もいたのではないかという考えも出てきます。

個人的には真実を述べつつ清正も秀吉にいいところを見せたくて焦ったのでしょう。悪気はなかったはずですと誘導し、秀吉にこれも虎之助の愛嬌かと思わせる芸があれば……と思えてなりません。
④ 近江閥
これに関してもなぜ秀吉子飼いの武将、例えば加藤清正福島正則が東軍についたかと言う疑問の答えの一つになります。
近江閥はその名の通り近江出身の大名でその特徴は「才智才覚に長けた者が多く」、執政官であった五奉行の内の三人が近江出身(石田三成長束正家増田長盛)であったと書かれています。
近江出身の彼らは秀吉が天下統一を終え、調整をし始めた頃から重用されます
今までは戦争上手が必要だったけれど、統一してからはどのように土地を分けるか、税を取り立てるかなどをやる人材が必要になったということです。
彼らは秀吉の側室で、秀頼の母でもある淀殿を中心に集まっていました。

これに対抗心を持っていたのが、秀吉が織田信長の一兵隊の頃から拠点にしていた尾張時代に集っていた武将達で、作品中では北政所のもとに集まったことから「北政所党」と表現されていたりします。北政所は秀吉の正妻で、秀吉が雑兵の頃に結婚をしました。
北政所のもとに集まる武将は戦場で武功を挙げることで名を成しました。
豊臣秀吉の天下を実現したのは我々だと言う自負があり、後から来たくせに寵愛を受けている近江閥には反感を持っていたという風に書かれています。

東軍、西軍などと言う話が出る前から尾張閥と近江閥が反目しあっていると言う構図があったようです。
⑤ 度胸
三成は上巻の中だけでもかなり思い切った行動をしています。
一つは秀吉の遺命に背き宴会を開いていた徳川側の武将たちのところへ単身欠けつけ参加を表明します。席に着き酒を煽って一言「きょうは、なんのお集まりでござったか」と空とぼけた口調で言い切ります。
しかも彼の服装は喪服だったと書かれていますから、これは強烈な皮肉です。
もうひとつは、徳川方についた武将達により命を狙われ潜伏する三成がとった行動です。三成はもはや逃げ場が無いと考えあろうことか家康の邸宅に現れ匿ってくれと頼みに来たのです。これは家康が自分をここでは殺すまいと言う賭けに出たということです。家康が殺すならもっと最適な時期があることを知っているはずと言う息の詰まるような心理戦が繰り広げられたわけです。
結果、三成はこの窮地を脱することになりました。
単に頭がいいだけではなく、時に豪胆な方法に打って出る度胸も持っていたという風に作中では書かれています。

2. 補足
石田三成(1560~1600)
近江に生まれ秀吉に仕えた武将。五奉行の一人で内政面に練達した。文吏派の一人。関ケ原の戦いで敗れて処刑される。
日本史B用語集 改訂版』

3. 次回
次回は徳川家康がどのようなキャラクターとして設定されているかを同じように五つのキーワードで見てみたいと思います。

「司馬遼太郎で歴史を楽しむ『関ケ原』……はじめに」

司馬遼太郎で歴史を楽しむ『関ケ原』……はじめに」

いよいよ8月26日から、映画版の『関ケ原』が公開される。それにあたって記事を書いてみることにする。今回は司馬遼太郎の『関ヶ原』の魅力と実際の関ケ原の戦いについて。映画の情報を知りたいという方は他をあたってください。

司馬遼太郎の『関ケ原』を読み解くにあたって、
まずは知識の整理をしておくことにしよう。
これは情報(点)にあたり、ここから様々な想像力を巡らし物語(線)ができたのである。
教科書は最低限ながら精度の高い点であるためここを見ておくことは肝要である。
手元にある『詳説日本史研究』では関ケ原周辺は半ページほどに書かれている。
それほどの長さでもないためすべて引用しておくことにしよう。

幕藩体制の成立
江戸幕府の成立
 かつて織田信長と同盟し、東海地方に勢力をふるった徳川家康(1542~1616)は、豊臣政権にくみし、1590(天正18)年に北条氏滅亡後の関東に移封されて、約250万石の領地を支配する大名となった。
江戸を拠点にした家康は、江戸城の拡大・整備や神田上水をひくなどの町づくりを進めた。家臣団の配置では、小身の者には江戸城近くに知行地を与え、万石以上の大身は領国周辺部に配置して、江戸の防衛と両国全体の安定を保った。
 こうして領国経営を充実させる一方、豊臣政権の五大老の筆頭として重きをなし、文禄・慶長の役にも出兵せず、力を蓄えた。1598(慶長3)年に豊臣秀吉が死去すると、家康の地位は浮上した。
 家康と対立したのが、豊臣政権を支えてきた実務官僚である五奉行の一人石田三成であった。光成は小西行長らとともに五大老の一人毛利輝元を盟主にして、宇喜多秀家島津義弘(1535~1619)らの西国諸大名を味方につけて兵をあげた(西軍)。対する東軍は、家康と彼にしたがう福島正則(1561~1624)、加藤清正(1562~1611)、黒田長政(1568~1623)らの諸大名で、三成と通じた会津上杉景勝との戦いのあと、東西両軍は1600(慶長5)年9月、美濃の関ケ原で衝突した(関ケ原の戦い)。東軍10万4000人、西軍8万5000人の天下分け目の戦いは、小早川秀秋(1582~1602)の内応により東軍の大勝となった。家康は、石田三成小西行長らを京都で処刑したほか、宇喜多秀家八丈島に流し、西軍諸大名90家、440万石を改易(領地削減)した。また、毛利輝元は120万石から37万石に、上杉景勝は120万石から30万石に減封(領地削減)された。逆に東軍の将士はその分加増され、新たに28の譜代大名が取り立てられた。
『詳説日本史研究』P.240

関ケ原の戦いに関して簡単にまとめれば、
関ケ原の戦い(1600年9月)とは、秀吉亡き後の勢力争いであること。
②この戦いでは徳川家康率いる東軍と石田三成毛利輝元の西軍がぶつかり合い。
 結果東軍が勝利した。
勝利には小早川秀秋が関与した。
④東軍の主な武将は福島正則加藤清正黒田長政
⑤西軍の主な武将は宇喜多秀家島津義弘
というようなことになるであろう。

これらの情報(点)が今後の司馬史観と言う物語(線)を紐解く足掛かりとなる。
可能性と確定した情報を分けるのは大切なことである。
どこまでが知識でどこからが想像なのかこの当たりをつけることができれば歴史は非常に奥深さが増すのである。

最後にこの点を並べて考え付く疑問点を先に列挙しておく、
これらの疑問符は高校性の持っている教科書、資料集、用語集を隈なく見ていると浮かび上がるもので、
特別難しいものではない。以下のように何でこうなるのか?というような視点を持つと単に暗記科目として
やみくもにあたるよりもにわかに面白味を増してくる。

疑問点
①西軍の大将はなぜ石田三成ではなく毛利輝元なのか?
②東軍になぜ秀吉に寵愛を受けた武将が多く参加しているのか?
 特に加藤清正福島正則は子供の頃から秀吉に見出された武将で特に恩が深いはず。
③なぜ家康は、西軍大将の毛利輝元は減封で石田三成は殺したのか?
小早川秀秋は一体何をしたのか?
⑤そもそもなぜ家康と三成はぶつかることになったのか?

司馬遼太郎はこの関ケ原の戦いを文庫にして3巻という内容に落としこんでいる。
そしてこの文章の中に司馬遼太郎ならではの回答が提示される。
それが正解と言うわけではない。それに対して賛同も反対も自由である。
重要なのはあなたはどう思うか?ということに他ならない。

今回の読解で注意しておくべきはただ一つ。
点を意識しておくこと、以上である。
点は逐一提示させていただくので、あとは司馬遼太郎の世界にどっぷりとはまっていただければ幸いである。
長くなってしまったが次回から本文へと入っていく。

知識のバラバラ_はじめに

知識のバラバラ__はじめに

世の中は今、情報社会である。
昔に比べて情報通信技術は日進月歩の勢いで進化し、
遠く離れた地域の出来事もネット上でリアルタイムで知ることができる。

その一方で世の中は情報に溢れ、
情報過多社会と言っても良いような状態になっている。
ネット上での情報は全てを見るにはあまりにも多く、誤ったものも散見される。
せっかく幅広い情報が見られるのに偏った情報ばかりが集まってしまうこともある。

世の中の知識は「点」を中心に動いている。
小さな情報が大量に更新されネット社会を作り上げていく。
昔の活版技術の頃では考えられないようなスピードで構成されるそれは早さゆえに
精度が低くなることも十分にありうる。

本ブログの目的は世の中に散らばる知識の「点」を集め、バラバラになった本質「線」を見出そうとする試みである。

 

ではこの「点」と「線」とはどういうことか、具体例を出してみよう。
風が吹けば桶屋が儲かる」と言う言葉がある。
新明解国語辞典によれば、
ある出来事の影響がめぐりめぐって思いがけないところに及ぶことの例えとある。
一方で大辞泉ではあてにならない期待をすることの例えともある。
一見真逆の意味の意味に見えるがどういうことだろうか?

風が吹くという出来事と桶屋が儲かるというのはそれぞれ起点と終点である。
これだけでは一体何が起きてこの流れが起こったのかは分からない。
結果、どうしてこれが思いがけないのかも実際はわからない。
この空白の部分を当たり前とせず意識しようというのが、
「線」つまり本質を意識するということである。
さらに意識した後はなぜかというところを推測したり、調べたりして埋めていく。
こうして確実な「点」をしっかりと補ったうえで、それでも残った空白を埋めていく。

今回はきまり切ったフレーズなので答えが存在するが、
時にはしっかりとした答えの出ないものもある。
しかし、世の中に答えがあるある方が珍しいのでそういうときこそ自分なりの
考えを構築する必要がある。

さて大辞泉に詳しい解説が乗っているので「風が吹けば桶屋が儲かる」という全容を見ておこう。
風が吹く→土埃がたって目に入り盲人が増える→盲人と言えば三味線を弾いて生計を立てる→三味線の素材で猫の皮がたくさん必要になる→猫が減る→ネズミが増える→ネズミは桶をかじる→桶の代わりを買う人が増える……。
とまあ、このような流れであった。
こうしてみるといかに現実離れした考えかが分かって面白い。
大体砂埃がまうからと言って目が見えなくなるという、
最初の前提からして実に大げさと言ってよい。

明鏡国語辞典では起こった場合のことを考えておりポジティブである。
大辞泉では起こらないことを想定した場合の考えで、
あてにならない期待をすることのたとえになっているのだろう。
とすればこちらはネガティブである。

同じ点を並べても解釈の違いがある。
これはとても重要なことで同じ情報を並べても行き着く先が同じとは限らない。
世の中の動きはこの点を冷静に見つけたうえで、
どのような意図で線を引いたかが重要になってくるのである。

余談として……、
盲人が三味線を弾くと言うのは、
平家物語を歌った琵琶法師のように当時は珍しくなかったらしい。
また今でも三味線の皮には犬や猫の皮が使われているようである。
線を引く際に、このように個々の点をつぶさに眺めるのも楽しみの一つでもある。

以上が簡単なガイダンスである。
本ブログでは様々な内容に切り込んでいく予定である。
故に決まったテーマと言うものが見えにくいが、目的は明快である。

バラバラになった知識の「点」から全体の流れ「線」を見出す。

気になる内容の項目をつまみ食いしていただければ大いに結構である。
すべての項目はこの目的に集約されているはずであるから。