ナガヒラタムシ

ナガヒラタムシ


森の中で見かける細長い甲虫の中にナガヒラタムシというものがいます。
見た目ははさみのないカミキリムシ、色の地味なタマムシという感じでしょうか。
表面は固い外骨格に覆われ、縦の溝がでこぼことしています。
体長は手元の百科事典では1~30㎜内外とあります。

朽ち木などの樹皮下での暮らしを好みます。
餌への記載はありませんでしたが似た種類のヒラタムシ科は餌として菌類や腐朽した植物質を食べるものや、肉食性でほかの虫をとらえるとされています。

今回はこのナガヒラタムシを取り上げたいと思います。
とういのもこの虫50㎞先からでも火事現場にたどり着くという驚きの能力があると言われているのです。
昆虫というのはそもそも非常に繊細なセンサーを持っていることが多いのです。
例えばゴキブリの触覚は嗅覚器官としてのセンサーを多く持っています。
小さくても生きていくには、ほんのわずかな刺激も見逃さないことが必要だったのかもしれません。
ではこのナガヒラタムシどのようなセンサーを持っていたのか……?
それは高度な赤外線センサーだったのです。

何らかの原因で火が回ると特定の波長の赤外線が放出されます。
ナガヒラタムシの胸周りから脚のつけねにかけて小さなくぼみがあり、これがセンサーの働きをしています。
火事があることが分かると現場へ急行します。
彼らの目的は餌もそうですが、パートナー探しの方が大きな理由です。
小さな虫はいくら数が多くても出会いの回数は限られてしまいます、そのため様々な虫が鳴くことによって音を立ててみたり、フェロモンを撒いてパートナーを呼び寄せてみたり、派手な見ためで遠目にもわかるようにしたりと工夫が見られます。
その中でナガヒラタムシが選んだのは待ち合わせ場所を決めるという方法でした。
火事が起こればみんなやってくる、そこでパートナーに出会うという仕組みにしたのです。
簡単に言えばお見合いパーティー会場として火事場を利用しているという感じでしょうか。

火事場に集まるというのは実は非常に理にかなっているとも考えられます。
火事によって一度多くの生き物がその場所から出ていきます。
その空いた場所を狙って彼らはやってくるのです。
樹木の多くも火事で痛んで朽ち木となりナガヒラタムシにとってはいいこと尽くしです。
敵のいない、自分に適した環境で交尾し卵を植え付けます。
そしてまた別の場所へと去っていき偶然に任せてパートナーを探し、火事があると再び嬉々として集まってくるというわけです。
火事に集まる虫の一種にタマムシがいます。こちらは火事で発生する煙の成分に反応します。使うのは嗅覚をつかさどる触覚です。
木材の成分リグニンが不完全燃焼した際の成分を察知しているようです。

この不完全燃焼というのがミソです。
何故なら完全燃焼ともなると木材も跡形もなく炭になってしまい栄養がありません、それに完全燃焼中の木に不用意に集まると自分も焼けてしまいます。
ナガヒラタムシもおよそ3µm(マイクロメートル、1㎜の1000分の1を表す単位)の赤外線の波長だけに反応することが分かっているようです。
これは私の想像ですがこの選択的な反応は不完全燃焼の木に集まるためのシステムなのではないかと考えています。火が大きくても小さくても波長が変わってしまいますから、丁度いい火の付き方をした木にだけ集まれるというわけです。

火事は恐ろしいものですが虫の中には、この自然現象を心待ちにしているものいるというのも興味深いものです。
現在もこのナガヒラタムシのセンサーの仕組みを解明して、高感度の火災探知機を開発しようという研究が行われています。
人間としては実現化してほしい火災探知機ですが……、ナガヒラタムシにとっては面白くない話かもしれませんね。

最後に余談をひとつ。
昆虫学の中ではこのナガヒラタムシ、現存する鞘翅目(しょうしもく、甲虫目と同じ意味)のうちで起源がもっとも古いそうです。つまり甲虫の中の生きた化石のような位置にいると考えられているのですね。
2億5000年前というような気の遠くなるような化石にも似た姿が確認できるようです。
もしこれがナガヒラタムシの祖先であるなら、形はほとんど維持されていたわけです。
そうなってくると果たして昔からこの赤外線センサーを持っていたのか?
それとも後から獲得したものなのか?気になるところです……。

今日はこの辺で失礼いたします。

弥助

弥助


日本の歴史の中で外国人の武士といえばだれを思い浮かべるでしょうか?
私は一番に三浦按針を思い浮かべます。
本名はウィリアム・アダムス。
1600年に日本に漂着し、家康に謁見、カトリック教であるイエズス会の誹謗を受けつつも信頼を勝ち取ります。というのも彼はイングランド人でプロテスタントだったんですね。
三浦按針の名前を与えられ、旗本の役職を得て帯刀を許されます。
そして海外の最先端の学問を教えつつ外交顧問として活躍しました。
青い目のサムライなんて紹介されるとかっこいいですね。

しかし今回は按針ではなく外国人の武士の中から「弥助」を紹介したいと思います。
彼は織田信長に気に入られて武士となり刀と家を与えられています。
本能寺の変にも参加していたと言われています。
ではなぜ彼を取り上げるかといいますと以下の記述に興味をひかれたからなのです。
信長公記』において弥助について「切支丹国より、黒坊主参り候」、「牛のように黒き身体」という記述があります。
そう、彼は黒人だったのです。
1581年の時点で日本に黒人がいて、さらに武士として暮らしていた……。これは大変な驚きでした。初めて見たときに思わず理解できず首をかしげてしまったほどです。
そもそも彼はどうして日本に居たのでしょうか?そこから見ていきたいと思います。
織田信長の活躍していたころには南蛮貿易が発展し、海外からの珍しい商品を載せて来ました。
鎖国はまだ行われていませんからオランダだけではなく、ポルトガルやスペイン、イングランドなど多くの国が訪れていました。
そんな16世紀に注目された商品の一つが黒人でした。当時は人買いが当たり前のように行われていたのです。弥助もその一人だったようです。
イエズス会の巡察師ヴァリニャーノが信長に謁見する時に連れてきたのが弥助でした。初めて黒人を見た信長はその肌色をにわかには信じられず水で洗わせて色が落ちないことを確認して初めて納得したとか。
興味をひかれた信長が交渉し部下にしたという流れだったようです。
記録によれば身長は六尺二分(およそ182㎝)あったそうで、今でも十分高いですし当時からすれば相当大きかったろうと推測されます。
(ちなみに江戸時代の男性の平均身長は155~156㎝だそうです。)

火縄銃の採用や楽市楽座の導入など先進的な視点を持っていたというイメージの強い信長は日本で初めて黒人を部下にした男でもあったのです。

時は流れて、1582年6月21日、明智光秀による本能寺の変が起こります。
伝承によれば明智光秀は弥助を前にして「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として逃がしたとされています。
では逃げた弥助はその後どうしたのか?
実は記録はここで途絶えてしまっているためにまったく分からないそうです。
弥助は非常に目立つ存在だったはずで後の記録がないとなると、本能寺の変で生き延びていたかどうかさえ疑わしいものです。

とあるTV番組では弥助の故郷と思われるモザンビークに、ヤスフェという名前の人が一定数居たことからこれが弥助の名前のルーツではないかという仮説や、キマウという着物のような服を着て行う祭りがあることから弥助が無事に生まれ故郷に帰って日本の文化を伝えたのではないかという非常に興味深い見解を示しています。
こういう歴史に書かれていない部分を想像してみるというのは非常に面白いものです。

 

以上が弥助の話です。
彼は決して歴史を変えたわけでもないので教科書には載っていませんが16世紀の日本が世界と繋がっていたという不思議な感覚を呼び起こされます。
奴隷としてアフリカのモザンビークから日本へやって来て、織田信長の下で武士となりその主人の劇的な死を目の当たりにした弥助。まさに数奇な人生を送った彼こそ歴史として語り継ぐに値するのではと思うのです。

今後戦国の世の中を考えるときに黒人の武士、弥助という男が活躍していたということにほんの少しでも思いをはせていただければと思います。

余談ですが、こういう本筋とは関係ない話を知っていると歴史を知るのがさらに楽しくなってくるものです。たまには融通無碍に物事を見てみるのもいいものです。

今日はこの辺で失礼いたします。

 

 

偕老同穴

偕老同穴

 

偕老同穴という言葉をご存知でしょうか?
手元の『新明解国語辞典』によると「夫婦が仲良く長生きをし、死んでからも一緒に葬られること」とあります。
何とも仲睦まじい様子が思い浮かばれるのですが、この偕老同穴の名を冠した生物が居るのです。皆さんは一体どのような生物を想像するでしょうか?言葉の意味を考えるにおしどり夫婦みたいな雌雄がいつでも一緒という感じかなとも考えてしまうのですが……。
(因みに実際のおしどりは一冬で夫婦関係は解消してしまいます。結構さばさばとしているのです。)
この偕老同穴という生き物の中でペアになるのはまったく別種の生き物なのです。
それは海綿動物とエビという異色の組み合わせ。
本日はこのカイロウドウケツについて書きたいと思います。

海底に繊維で織り込んだような白い筒状のものが波に揺られていることがあります。
これが海綿の一種のカイロウドウケツで、その芸術的な造形にヴィーナスの花籠という別名もあるくらいです。
身体の構成要素は二酸化ケイ素で、ガラスの主成分でできています。
この中を覗き込むとそこにドウケツエビの姿を確認することがあります。このエビはカイロウドウケツの作る網目の大きさよりも大きいです。つまりこのエビ、外へ出ることはできません。
どうしてこのようなことが可能になったかというと、まだ自分の身体が小さかった頃に入り込んでしまうから。その後もこのカイロウドウケツの中で暮らし成長、最終的に入り込んだ穴よりも大きくなってしまうのです。餌は網目に引っかかった有機物を食べています。

しかしそれではこのエビどのようにして子孫を残すのか?
実はこのカイロウドウケツには二匹のドウケツエビが住んでいます。
小さなドウケツエビは雌雄がはっきり分かれていません、一緒に住んだドウケツエビは大きくなるにつれて雌雄に分化するので、一つの家に雄だけまたは雌だけというふうにはならないのです。
カイロウドウケツの中で2匹のドウケツエビが生涯を閉じるまで暮らす。
まさに「偕老同穴」というわけです。
カイロウドウケツはしっかりとした構造ですので、ドウケツエビを外敵から守ってくれるそうです。
この小さな隙間に最初に入り込んだのは偶然かもしれませんが、その過程の中で同じように隙間に入るパートナーがいて、そのつがいが生んだ子どもが今もその流れを汲んでいると考えると何だかロマンティックですね。

ただ細かいことを気にすると「偕老同穴」なのは中に住んでいるドウケツエビであって、カイロウドウケツという海綿生物ではないということですね。
言葉だけ見るとカイロウドウケツがつがいになって死ぬまで一緒に暮らしているかと思ったらそうではないのです。
そうするとカイロウドウケツはドウケツエビが「偕老同穴」に暮らすための洞穴の名称なのか……、ややこしいです。

生物の特徴を模倣して人間の生活を豊かにしようというバイオミミクリーの観点からみるとこのカイロウドウケツは何とも好奇心をそそるものだそうです。
というのも先ほど書きました通りカイロウドウケツの身体の構造は二酸化ケイ素でできています。二酸化ケイ素はさまざまな結晶構造を持つのですがその加工には高温条件が必要と考えられてきました。
ところがこのカイロウドウケツは海底にあり低温条件下でも平気でガラスの繊維を作っていたわけです。
しかもこのガラスの繊維が光ファイバーによく似た性質を表すことから、低温・低価格での光ファイバーの製造への可能性が秘められていると考えられるとか……。
生物が当たり前にやっていることの多くにはまだまだ人間の考えの及ばない可能性が詰まっているようです。

そういえば何気なく書きましたが、2匹のドウケツエビは一体どのようにして自分達の性別を分担しているのかも大きな謎ですよね。
身体の大きさとかで入ってから決めるのでしょうか?
そうはいっても誤って雄同士になって気まずく一生を終えるペアもいるのでしょうか?
興味は尽きません。

子どもいう名の科学者たち

子どもという名の科学者たち。
 ※最初に申しておきますがあくまで個人的な意見です。
 
 私は大学で生化学や植物学の講義を受けていたことがあります。どういうことを学んだかと言いますと生物がどのようにして食べ物をエネルギーとして取り込んでいるか、体に必要な物質に変換しているか、植物の構造はどうなっているのか、どうして植物は上に伸びられるのかなどなど……。ともかく何故?どのようにして?を純粋に追及して行った次第です。
 己の好奇心が満たされ、自身の知識がついていく実感がありました。なるほどね、世界はこういう仕組みで成り立っていたのか。そういう風に楽しい時間を過ごしていたのです。
 ところが、ある日私の自信は幼い子どものたった一言で崩れてしまいます。
 彼が言ったのは「植物に詳しいんでしょ?あの葉っぱなんて言うの?」でした。
彼らが指さしたのは地を這うような植物でした。ちぎると断面から木工用ボンドによく似た真っ白な液体が出るからボンド草と呼んでいました。
 私は黙ってしまいます、よく考えたら光合成の仕組みや細胞の構造、どういうタイミングで発芽するか……など色んな知識があったのですが植物の名前に関しては素人も同然でした。急いでスマホの植物図鑑を開いて子どもたちと一緒にあーだ、こーだと言いながら同定し始めたのですが……。
自分の至らなさと高慢さを恥ずかしく思ったものです。
物事の本質を追いかけるあまり大事なものが抜け落ちてしまっていたわけです。
そうやって冷静に見てみると、科学的な発想と言うのはどういうものなのかを改めて考えるきっかけになりしました。

想像してみるに大昔の人々は自然現象と切っても切れない仲であったのでしょう。今のように科学技術で自然を限界はあれどもコントロールしようという発想はなかったのではないかと思います。
例えば、多神教の神話では多くの神は自然や農耕などのモチーフが使われ、一神教でも人は神に服従するものとして描かれています。そしてそのどちらに関しても人は神の上に立てませんでした。よくて対等、多くは下の存在です。
彼らは謙虚に自然を観察し、そこにキャラクター性や絶対的な力を感じとり神話へこぎつけた気がするのです。そういう点では神話は最初の科学的思考の軌跡と考えてもいいかもしれません。もちろんこの発想が現代のような科学に発展するにはかなりの年月を要したわけですが、少なくとも観察から仮説まではやっていたのです。

科学はこの世界の真理を解き明かす学問です。
この真理は例え私が死んでも、この地球が滅びても、宇宙が崩壊しても存在します。
最初は簡単な問題と答えのつながりも、だんだんと複雑化し対象とする分野も難しくなり答え自体も抽象化していきます。
人はなぜ生まれてくるのか?死ぬということは何か?時間と言う概念は実際にあるのか?物事を極限までミクロに考えるとどのような挙動をするのか?遺伝子をいじればどのような生物も誕生させることができるのか?
まったく終わりなき謎が我々を待ち構えているわけです。今でも最高峰の知識を携えた人々が最先端の技術を用いこれらの難問に挑戦し続けています。
当然その最先端が気になるわけですが、そこで十分に注意しておきたいのは「科学は目の前の謎を解くことから進化した学問」だということです。こういう視点があればこそ人は自然を愛しなおかつ科学を愛せるのだと思うのです。
繰り返しになりますが、科学は高度になればなるほど無機質です、物事は極端に抽象化され、分解され、その本質だけが現れてきます。しかしその始点はいつだって有機的で、複雑で、全体的な謎に満ちた「何だ、これは!?」の集合であったわけです。
全ての植物を単に光合成する生物の一群と思わずに、一つ一つの植物をじっくりと眺めると思いがけない発見があります。そしてそういう視点で得た知識と言うのはすっと体になじむような気がします。冷たくて近寄りがたい、遠くの出来事で自分とは関係ないと思っていた科学が自分のすぐそばで息づいているという実感がわくのです。
子どもたちは非常に素直に自然を見ていました。彼らにとって科学とは「いま、目の前の謎を解く」ためのものなんだなぁと思うとともに、私よりずっと科学者であったと思ったのでした。

ちなみに子どもたちが指さした植物は、正式名称コニシキソウで白い液体は乳液と呼ばれ多くの場合有害らしいことが分かりました。
傷を早く閉じるためだとか、炎症を誘発して敵を遠ざけるためとか理由はまだ明確に分かっていないそうで、ゴムの木から出るゴムのもとと実は同質のものらしいとのことでした。
そういえばあの液体触るとベタつきます。
こういう五感をフルに使った生命の延長線上で科学をやっているというのは文献に当たったり、人工的な環境で実験を行う身にとっては貴重な体験になりつつあります。
昔の科学者はそれはもう子供のように野を駆け回っていたのかもしれません。
……と言うよりも私も最初はそこから科学の世界に入ったはずなのに、いつの間にこんなに頭が固くなってしまったのでしょうか。
余談ですがコニシキソウはアリとの共存でも知られています、蜜を出す代わりに花粉を媒介してもらうのです。種も運んでもらっています。足のない植物はこのようにして昆虫と共生して自分の生活圏を広げているわけです。

 

日々閑談 まとめ

日々閑談__
ブログ用の記事を作るのが思いのほか大変です。
知らないことをブログ用の記事にまとめるというのは思ったよりも大変なんだと痛感しています。これもある程度慣れてくれば……と期待しているのですがいつになるやら。
そこでブログの企画記事とは別に毎日自由に書く雑談を設けてみました。
こちらは私が自由に点から線を引いているためかなり突飛な発想をしていることがありますのでご注意ください。
分野は問わず、その日私が書いてみたいと思ったことを書きます。
およそWordで1800文字くらいの分量でしょうか。
このページに更新の進行をまとめておこうと思います。

もし気が向いたら見てください。

 

takenaka-hanpen.hatenablog.com

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僕は新聞が読めない__アフガニスタンとタリバン

僕は新聞が読めない__2
アフガニスタンタリバン


1.記事について
〈アフガン追加派遣命令 見えない出口戦略 米国防長官
 マティス米国防長官は8月31日、アフガニスタンに米兵の追加派遣を命じたことを記者団に明らかにした。トランプ政権は「新アフガン戦略」と銘打っているが、16年続く米軍の駐留と泥沼化するテロとの戦いに「出口戦略」は見えないままだ。
 マティス氏は今回の派遣規模について明らかにしなかったが、米メディアによると追加派遣方針の約3900人のうちの第1陣とみられる。マティス氏は「アフガン部隊がより効果的に戦うため」と説明。アフガン部隊への助言、テロ対策などに任務が限られるとし、オバマ前政権の対応と変わりがないとの考えを示した。
 米軍のアフガン駐留をめぐって、オバマ前大統領は完全撤退方針を示していた。トランプ大統領もかつて「金の無駄」などと批判、即時撤退を持論にしていた。しかし、反政府武装勢力タリバーンなどの伸長を抑えることができず、先月21日に米軍の撤退が「テロリストがはびこる空白を生む」として、無期限の駐留継続を表明していた。アフガンには現在約1万1千人の米兵が駐留しており、追加派遣で約1万5千人に増える見込みとなっている。
 2001年に始まったアフガンへの軍事介入は「米国史上最長の戦争」と言われる。千人単位の増派で不安定なアフガン情勢に劇的な変化をもたらすのは困難とみられ、新戦略でも米軍撤退の見通しは示されていない。(ワシントン=杉山正)〉
(朝日新聞 2017年9月1日 夕刊)

タリバーン台頭後のアフガニスタン
 1996年9月 タリバーンが首都カブールを制圧、政権樹立
 2001年9月 米同時多発テロ
     12月 米軍主導の空爆タリバーン政権崩壊、国際治安部隊が展開開始
 2005年頃  タリバーン自爆テロを戦術に採り入れ、攻勢を強める
  14年12月 国際治安部隊が任務を終え、大半が撤退。タリバーンが勢いづく
   15年1月 ISの支部が活動を始める
     10月 16年末までに撤退予定だった米軍が駐留延長し、部隊1万人弱が残ることに
   17年1月 トランプ米大統領が就任。その後、米軍増派の検討が始まる
      5月 カブール中心部で大規模な爆破テロがあり、150人以上が死亡
      8月 トランプ大統領が米国のアフガン新戦略を発表〉
時系列は、朝日新聞 2017年9月5日 朝刊より引用。


2.疑問点
いまだに混迷を極めるアフガニスタンアルカイダイスラム過激派、タリバーンパキスタンとの関係など新聞やニュースで多く目にかけるがそもそもなぜアフガニスタンがこのような状態になってしまっているのかについてはよく知らなかった。
そこで今回はアフガニスタン戦争の情報の整理を行うことにする。
この歴史は長く複雑なため二部構成とする。第一部はタリバン登場からアフガニスタンの制圧まで。第二部はオサマ・ビンラディンと9・11テロを中心に構成する。

 

3.知識の整理
今回は内容が新しいため世界史の分野から外れるため『詳説 政治・経済研究』(山川出版社)のほかに以下の文献、ウェブサイトを参考とした。
・『そうだったのか! 現代史パート2』、池上彰集英社
タリバン | 国際テロリズム要覧(Web版) | 公安調査庁
http://www.moj.go.jp/psia/ITH/organizations/SW_S-asia/taliban.html
アフガニスタン | 国連広報センターhttp://www.unic.or.jp/activities/peace_security/action_for_peace/asia_pacific/afghanistan/

ソ連アフガニスタン侵攻と第2次冷戦(1979年):
1978年にアフガニスタンに成立した社会主義政権を支えるために,ソビエト軍アフガニスタンへ侵攻した(完全撤収は1989年)ため,東西対立が再び表面化した。「強いアメリカ,悪の帝国ソ連」を主張するレーガン米大統領の登場で緊張はさらに高まり,ヨーロッパへの各増強で全面核戦争の危機やレーガン政権の戦略防衛構想(SDI)による軍拡路線が再び始まった。西側諸国による1980年のモスクワオリンピックボイコット,東側諸国による84年のロサンゼルスオリンピックボイコットは対立の象徴的事件であった。

アフガニスタン内戦:
1979年のソ連軍事介入後の内戦は,1996年にタリバンが全土をほぼ掌握し、実効支配したことにより一応終結した。「9・11」後、オサマ=ビン=ラディンをタリバン政権が匿っているとしてアメリカがタリバン政権を攻撃し,多くの人命が失われた。2001年12月にはアフガニスタン暫定行政機構が発足し,カルザイが議長に就任。その後,新憲法公布,大統領選挙が実施され(カルザイが大統領に就任),新政府が発足した。04年新憲法制定。05年には,国会下院議会選挙が行われ,32年ぶりに国会が開かれた。国内の一部にはまだ軍閥などが影響力を有しており、政情はいまだ不安定であるが政治・社会変革が進められている。
イラク戦争でアメリカがいなくなるとタリバン政権は息を吹き返した。

『詳説 政治・経済研究』(山川出版社)より、※以降は書き足した。

 


第二次世界大戦が終了し世の中には、資本主義体制のアメリカと西欧、社会主義体制のソ連と東欧が勢力争いを続けていました。直接的な武力衝突のないもので冷戦と呼ばれます。中東へ勢力を広げようとするソビエト連邦アフガニスタンに着目します。
最初は援助を積極的に行うだけでした。
ところが1973年7月にザヒル・シャー国王のいとこサルダム・ムハンマド・ダウド元首相が軍部と協力し無血クーデターを起こします。さらにダウドはソ連寄りの共産主義を掲げる人民民主党を弾圧。
怒ったソ連は手を回し人民民主党主導のクーデターを起こさせ権力を掌握します。
この時人民民主党内でハフィズラ・アミンが代表になりました。しかし、ソ連にとってアメリカに留学経験のあるアミンは信用なりませんそこで直接的に軍事介入しソ連寄りの政権を樹立することになりました。1979年12月24日のことです
結果アミンは死亡。傀儡政権にバブラク・カルマル元副首相をトップに据えました。
Point.ソ連の軍事介入からすべては始まった。

 

突然のソ連軍の侵攻に周辺国の若者たちが立ち上がります。
彼らはこのソ連の侵攻をイスラム教への侵害と位置づけ自らの戦闘行為を「聖戦」、そしてその聖戦に身を投じる者を「ムジャヒディン(聖戦士)」と呼びました。
ソ連の掲げる共産主義は宗教の存在を否定していたため起こった構図でした。
彼らをソ連と敵対するアメリカとイスラム教国家パキスタンサウジアラビアが支援します。苦戦を強いられたソ連は1989年2月15日アフガニスタンから撤退します。
同時にソ連が手を引くとアメリカも干渉しなくなっていきます。
後ろ盾を失ったアフガニスタン政府のムハンマド・ナジブラは3年間政権を維持しましたが最終的にラシード・ドスタム将軍率いるウズベク人主体の軍に裏切られ崩壊、後軍隊はアハマドシャー・マスード司令官率いるタジク人主体のゲリラと合流します。
Point.イスラム教徒にとって共産主義との戦いは宗教的な「聖戦」だった。

 

無政府状態アフガニスタンで内政は悪化の一途を辿ります。
軍閥が登場し派遣をめぐり内戦が頻発します。
まず起こったのがマスード・ドスタム連合軍とグルブディン・ヘクマティアル率いるゲリラ組織(パシュトゥン人)との戦いでした。アフガニスタンはパシュトゥン人の国家と言う自負のあるヘクマティアルにとって首都カブールがタジク人やウズベク人の手にあることは許せなかったようです。ヘクマティルはパキスタンパキスタン軍統合情報本部から支援を受けていました。なぜか、それはパキスタンもパシュトゥン人の国家だったからです。パキスタンは支援することでアフガニスタンでの存在感を大きくすることを狙っていました。そこで縁が深そうなヘクマティアルを応援したようです。
Point.政府が無くなったことで内政は以前よりも悪化した。

 

軍閥は好き放題、嗜虐の限りを尽くします。強盗、強姦も行われたそうです。
そこに「タリバン」が登場し軍閥の横暴から人々を無償で救い出します。この行為が人気を呼び民衆から支持を得ます。それを見ていたパキスタン政府とパキスタン軍統合情報本部もヘクマティアルを見限り代わりにタリバンの支援を開始します。
タリバン」は学生を意味するタリブの複数形です。元々はアフガニスタンを追われ難民としてパキスタンで暮らしていた若者達。彼らはイスラム教のマドラサ(神学校)の学生であったからこの名を名乗ります。そこでの教育は「コーラン」がすべてであり、その他の教養は教えてもらっていなかったようです。ここにイスラム原理主義の性格の素因があります。タリバンの主導者はムハンマド・オマルで1996年にはムハンマドの後継者を自称し大きな存在感を表していました。
タリバンはあっという間に国土を占領していきます、軍閥タリバンを倒すため「北部同盟」でまとまることになりました。1996年9月、マスード将軍率いるタジク人武装勢力を破って首都カブールを制圧し,「アフガニスタン・イスラム首長国」の樹立を宣言。さらに,北部のハザラ人,ウズベク人,タジク人などの少数民族による武装勢力を次々と破り,1998年8月に北部バルフ州マザリシャリフを制圧することで,アフガニスタンの大部分を支配するに至ります。
Point.タリバンパキスタンからやってきたアフガニスタン難民の若者だった。

 

1998年9月には,偶像崇拝の禁止を徹底すべく,世界遺産に登録されていた中央高地・バーミヤン州の仏教遺跡群の石像を一部破壊しました。2001年2月にはすべての仏像の破壊が行われました。これはイスラム教の「偶像崇拝」の禁止に基づくものでした。
他にもイスラム教を極端に解釈した行動が多く取られました、サッカースタジアムでの公開処刑、飲酒の戒めを守らせるために国内の酒瓶の破壊命令、ムハンマドがひげを生やしていたことから生えてない人物を逮捕、女性の教育の禁止、皮膚の露出の禁止、外出禁止などの極端な解釈に基づき驚くべき行動がとられました。
Point.タリバンイスラム教を独自解釈し実行した。

次回に続きます。

 

僕は新聞が読めない__ヒトラーは結局どういう人物か?

僕は新聞が読めない__1
ヒトラーは結局どういう人物か?

 


1.記事について
麻生太郎副総理は29日、横浜市で開いた麻生派研修会の講演で、「少なくとも(政治家になる)動機は問わない。結果が大事だ。何百万人も殺しちゃったヒトラーは、いくら動機が正しくてもダメなんだ」と発言した。
 麻生氏は2013年に憲法改正をめぐり、ナチス政権を引き合いに「手口を学んだらどうか」と発言し、国内外から批判を浴び、撤回している。今回は、政治家のあり方に言及した際の文脈での発言だったが、今後問題になる可能性がある。〉
(2017年8月30日 朝日新聞 朝刊より )

麻生福総理の際どい発言が取りざたされた記事。
記事にもあるように麻生副総理は以前にも、憲法改正についてコメントし「憲法は、ある日気づいたら。ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口を学んだらどうかね」と発言し批判を浴びています。

補足:ワイマール憲法とヴァイマール憲法は同じものです。

 

2.疑問点
今回は麻生氏が何を意図してこのような発言をしたのでしょう?
ヒトラーで思い浮かぶ内容と言えば、ナチ党の総統で世界第二次大戦のきっかけとなった人物でアーリア人至上主義者をひっさげユダヤ人虐殺を行った……くらいでしょうか。
一言でいえば極悪人と言うイメージです。
しかし、そもそもそういう人物がどうやって政権を掌握し国の代表になりえたのでしょうか?第二次世界大戦後の彼は有名ですがその前は……?
今回はヒトラーが権力を掌握するまでを取り上げて知識の整理をしてみようと思います。


3.知識の整理
ヒトラー Hitler 1889~1945
オーストリア生まれのドイツの独裁政治家。1921年以降ナチスの党首となり、ヴェルサイユ体制打破と反ユダヤ主義・反共産主義を声高にとなえた。恐慌による社会危機に乗じて33年に政権を獲得。徹底的な独裁を確立してドイツに恐怖政治をしき、露骨な膨張・侵略政策を強行して第二次世界大戦をおこし、敗戦直後に自殺した。

国民(国家)社会主義ドイツ労働者党 Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei
第一次世界大戦後に設立された右翼政党。1920年にドイツ労働者党から改称した。ナチスは略称。大恐慌後、社会不安に乗じてテロもまじえた強引な行動力と、たくみな宣伝力で人びとをひきつけ、中小農民や、とくに官僚・商店主・中小企業主などの中産階級の支持を受けて勢力を急速に拡大させた。その後、共産党の進出に危機感を抱いた資本家や軍部からも支持を得て、33年党首のヒトラーが首相になり政権を獲得するにいたった。

『世界史B用語集 改訂版』より。

 

1919年ドイツは第一次世界大戦に負け、ヴェルサイユ条約を承認しました。
条約による制裁や賠償金でただでさえ戦後で苦しい状況で、政権を握る社会民主党共産党は意見の対立を抱えていました。
共産党民主化、社会改革を進めるべきとし兵士・労働者の革命組織(レーテ)を支援します。
一方保守派の社会民主党は軍部や経済界と結びつき、講和交渉や平時体制への移行を目指します。改革は政治内に留めるべきと言う考えでした。
ヴァイマール憲法判定会議が迫る中、社会民主党は反対勢力を武力で制圧します。
Point.ヴァイマール憲法制定を前に左派と右派の政治的対立が激化していた。

 

七月には憲法制定会議があり、ここで有名なヴァイマール憲法が制定され同時に国名がヴァイマール共和国となります。初代大統領には社会民主党エーベルトが就任しました。
ヴァイマール憲法は当時最も民主的な憲法で、参政権公民権生存権、労働権の保障、青少年や家族の保護などが盛り込まれました。
Point.第48条は「大統領緊急令」、非常事態には首相が立法権を持てた。

 

一部の保守派やナチ党、共産党は敗戦とヴェルサイユ条約の責任をとらずに政権を維持していることに反発します。1923年にはナチ党のヒトラーが暴動を起こすも鎮圧されます(ヒトラー一揆)。歴史を一変させてしまうあのヒトラー本人です。この時期から結構過激ですね。懲りたのか政権奪取まで影を潜めます。
経済面では、戦後インフレが昂進しました。お金の信用は下がり物価が上昇、国民は苦しい生活を強いられます。1923年にはフランス・ベルギーがドイツは賠償責任を満たしていないとルール地方を占領したことがきっかけでさらにインフレは悪化します。
1924年にはアメリカが資本を導入することでインフレはひとまず落ち着きます。
Point.ヒトラー一揆の結果、ヒトラーは逮捕。ただ司法界には反共和国の人が多く判決は寛大であったとされる。『我が闘争』は獄中で書かれた。


1929年アメリカで金融恐慌が起こり次いでドイツも経済が破綻し国会が機能停止します。
この頃発足したブリューニング内閣はデフレと増税でこの難局を乗り切ろうとしますが、国会で承認が下りず民意を問うため選挙を行います。
自分が正しいと証明するための選挙のはずが……、結果は反対派のナチ党や共産党の大勝でした。
国会は反対派多数のためブリューニング内閣は思うような立法ができません。
そこで考え出したのがヴァイマール憲法の第48条「大統領緊急令」でした
この条項でブリューニングは国会審議を通さず法律を作成できます。ただし公布後は速やかに国会に報告され、そこに否決権を持ち無効にする機能があります。ドイツには首相をトップとする内閣の更に上に大統領がいます。大統領は強い権限を持っていますので緊急事態とみなせばこういうことが可能でした。人気のないブリューニング内閣だが、ナチ党なんかには政権は任せたくないという考えがあったようです。
Point.ヒトラーの前にブリューニング内閣と言う独裁的な色合いが強い政権があった。
ブリューニングはオーストリアと関税同盟案を発表しフランス・ポーランドの緊張を招きます。また徹底的なデフレ政策を行います。これにより国内は疲弊しきりドイツは賠償責任を果たせる状況ではないと判断され負担のほとんどが無効化されました。ただしその判断の頃にはブリューニングは既に失脚していましたが。

 

ヒンデンブルグ大統領はより右派の政治家を首相に任命するも効果はなく、1932年に第一党となっていたナチ党と組む以外大衆基盤を確保できない状況に追い込まれました
首相に任命されたヒトラーは反対を押し切り即解散、選挙に踏み切ります。
この際、ラジオなどのマスメディアの利用や相手政党への妨害、国会議事堂放火事件に共産党が関与したとして行った共産党の追放をするもナチ党のみでは過半数に届かず保守派との連立となります。ヒトラーは強引に全権委任法を成立させ、これによりヴァイマール憲法は形骸化しナチ党は一党独裁推し進めました。
Point.ヒトラーは与党になるためマスメディアを活用。同時に暴力的な方法もとった。


ナチスの政策は、国連脱退、中央集権化による州の自治体制の廃止、ナチ党内部の一部急進派と保守反対勢力を暴力的に排除(レーム事件)と進んでいきます。
一方で、経済対策としてアウトバーン建設などの公共事業の拡大。国内の自給率を高めようとする四ヵ年計画を行い、国内の失業者をほぼ無くしました。これは世界恐慌に悩んでいた各国から高い評価を受けます。
他にも余暇組織の設立やラジオの普及、貧困層への救済事業、結婚資金の貸付制度など福祉社会事業の拡大が行われます
また1936年にはベルリンオリンピックを行い国民の自尊心の回復を達成しました。
こうした政策から1936~1937年には「なんだヒトラー良いやつじゃないか」と国民からナチ党は多くの支持を得たわけです。
Point.手荒なこともしたが経済対策の成功や五輪誘致などで政治家として人気を集めた。
こうして国内基盤を確立したヒトラーはイギリスと軍事協定を結び、戦争へと舵を切ります。そうして起こったのが第二次世界大戦でした。
『詳説世界史研究』、山川出版社


4.まとめ
今回の調べでヒトラーが全権委任法を成立させる前から、国会を通さずに立法を行う大統領緊急令などの濫発(ブリューニング内閣)で政治は破綻寸前であったことが分かりました。
民意を問うて結果が気に食わないから無かったことにするようでは民主的ではありません。
既に政治は無法状態で、こここそヒトラーが台頭する要因であったようにも思えます
信用を失った保守派とは逆に絶望的な民意の受け皿となったのがナチ党であったようです。

教科書には書かれていませんが『山川 世界史小辞典』(山川出版社)によれば全権委任法の成立に関して、「政府は共産党議席剥奪や野党議員への恫喝など強引な方法で、社会民主党の反対のみで可決させた」とあります。およそ民主的なものとは言えそうもありません。
この全権委任法の成立によって最も民主的なヴァイマール憲法はその機能を失います。以降ヒトラーは己の野望をかなえるために軍を進め世界二次大戦のきっかけを作っていくわけです。

そんな中でヒトラーが国内の疲弊した経済を解決したと言う一面は初めて知りました。
歴史にifはないとはよく言いますが、もしヒトラーが国内の充実のみで満足していたなら彼は稀代の政治家として名前が残っていた可能性も……。
こうして整理してみると冒頭の麻生副総理の発言は、
ヒトラーの動機は正しくなかったが、結果次第では名政治家になりえた」と言うような意味だったのではないかと思えます。

実際のところ世界大戦を起こし、反ユダヤ主義をもとに多くの殺人を行ったヒトラーは許されるべきではありません。かといって感情的に「悪いとみんなが言っているから悪い」と言うような論調にただ乗るのでは真相は分かりません。
問題はしっかりと情報を整理し何が行われたのかを冷静に吟味し自分なりの解釈をもっておくことであると思います。
失敗から学ぶのも歴史の見方の一つではないかと改めて思うのです。

以上をもって今回の調査を終えます。ご視聴ありがとうございました。
●併せて読みたい本として
ヒトラーヒトラー一揆で監獄にいた際に書いた我が闘争では、ヒトラーの考えの祖型を垣間見ることができます。
迫害されるユダヤ人の視点で書かれているアンネの日記は世界的に有名な本で世界的に読み継がれています。
ここに並べて良いのか分からないですが、『帰ってきたヒトラーはドイツ人のヒトラー像の一端が分かって面白かったです。お笑い芸人として現代によみがえるヒトラーという設定で読みやすい。映画化もされているようです。